不可思議愛憎劇 9


  
 
 
 
 
 冷たい何かが頬に触れ、元親ははっと意識を戻した。ぺたり、と当てられているそれは氷のようだが、確かに知ったものだ。ゆっくりと目を開けると、無表情の中にほんの僅かな焦りを含んだ切れ長の目がほっとしたようにニ、三度またたく。
「元就、無事だったか」
 起き上がり、目の前に座り込んでいる元就に目に見えるような怪我がないことを確認してほっとすると周囲を見渡した。
 白っぽい靄がかかった中、これまで見ていた景色とほとんど変わっていないのが不気味であり不思議だった。雨に濡れたような地面、乾いた冷たい風、何もない世界。違うのはつい先ほどまでともにいた政宗たちや兵士らの姿がどこにもないことだ。遠くでもぞもぞと蠢いているのは彼らを襲った白い腕だろうか。さすがに近づいて確認する気にはなれない。
「ここは、結界の中か」
「おそらく。貴様は無事のようだな」
「ああ。思いきりひきずられたわりに大怪我はしてねえみたいだ。それよりどうするよ」
 見渡す限り何もないというのはおかしい。そう呟けば、元就は難しい表情で唇を噛んだ。
「・・・我の推測では口に出すのも汚らわしいが、かの征天魔王の企みだろうと思っていたのだがな。これでは手がかりひとつないではないか」
 金ヶ崎、お市、死者の群れ。それらから考えて第六天魔王が復活したのではと考えた元就だったが、違ったのかとためいきを漏らした。
「どうする、とりあえずぶらっと歩いてみるか?わざわざ俺たちを取り込んだからには理由があるだろう」
「そうだな」
 一度膝をついて立ち上がる元就の腕をとり、元親は用心深く目の前のかつての情人を観察した。顔色が悪いのも若干ふらついているのも、それを指摘したところで状況が好転するとは思えない。気づかないふりをしながら手を貸した方がいいだろう。こんなところで揉めるのは御免である。
 ふたりきりだ、と思うと何だか意識してしまう。触れた手の温度が高くなっているような気がして隣りを振り返るが、元就は怪訝そうに首を傾げるだけだった。
 ざらりと砂を踏みしめながらあてもなくさまよう。今が昼なのか夜なのかそれすらも分からない。空も周囲も灰色で、どこまでも果てしなく続くようだ。本当にこのまま誰とも会わず、何もなく、いずれ体力が尽きると同時に砂になるのかと弱気になりかけて元親はぐっと腹に力をこめた。
(そんなはずはねえ。何かあるはずだ)
「元親」
「ん?」
 足は大丈夫か、と返しながら自分よりも下にある頭を見下ろすと、元就が困惑したような表情で一点を指差した。
「あそこにあるのは城ではないか?」
「あ?・・・あんなところに、城?怪しすぎるだろう」
 険しい顔で先を睨み据える。突如霧の中から出現した質素で不気味な小じんまりとした黒い城。烏城に似ているが形や大きさは似ても似つかない。周囲に張り巡らされた堀には黒々とした水が流れ、門にそびえ立つ櫓は雲を裂くようにどこまでも伸びていて、先端が見えない。ふたりともこれほどの高さの櫓など目にしたことはなく、また実用的でもないと思われた。当たり前である。あのような天辺も見えない高さから何を監視すると言うのか。
「行ってみるしかないだろう。油断するでないぞ」
「おう」
 いつの間にかふたりが繋いだ手はしっかりと指を絡められ、決して放さないとばかりに強く力をこめていた。まるで互いの不安を吸収し、消化し合うかのように握られている。考えてみればこれまで、触れて安心するようなことはなかったように思う。熱いばかりの恋情は激しすぎて、時間がたてば冷たくなって、その繰り返しだった。
 全てが終わって初めてきちんと向き合い始めた。遅すぎたのだろうか。けれど、自分たちはまだ生きている。
 この摩訶不思議な状況から脱して全てが片付いたら、きちんと話し合おう。互いの立場や建前を一度脇へ置いて(捨てることができればどんなにか楽だろう!)まず正面から向き合うことが必要だった。すれ違いばかりの感情論をぶつけあっただけでも、きっと何かが前進しているはずだ。おまえが欲しい、とは元就にとってはつまり、壊したいほど好きだ、という意味なのだと理解したから。
 城に近づくにつれその異様さは際立っていた。灰色と黒だけで構成された造り、首をどんなに伸ばしても見えない櫓の先端、得体のしれない黒い水、見張りのいない門、そして四方に取り付けられた砲台。しんと静まり返った中にあって、聞こえるのはふたりぶんの息遣いだけだ。いつの間にか風も何かを恐れるかのように止んで枯れた葉一枚揺らさずに沈黙している。もしこの場にひとりきりであれば、時間が止まった中に取り残されたかのような気になるだろう。
「中に入るか」
「それしかなかろう」
「罠の可能性もあるぜ」
「もとより承知よ」
 罠だろうが、あえて飛び込むしかない。迷わずうなずいて足を進める元就に、元親は彼のてのひらを握ったまま後を追った。
(振り払わないんだな)
 ぎゅっと力を込めると同じ力で返してくる。予断を許さない状況だというのに、なんだかくすぐったくて暖かい。
「何をにやついておる」
 ふいに振り返って睨む元就に、元親は慌てて緩んだ口元を引き締めた。
「にやついてねえよ」
「ふん」
 このような状況でよくそんなだらしのない顔ができるものだ、と馬鹿にしたように言い放ち、それでも元親の手を握ったまま、ためらいなく黒い城の門をくぐった。扉は人ひとり分ほどが通れるくらいに開かれており、黒々とした穴がその隙間からふたりを手招いているようだった。入れば最後、二度と出ることができないかもしれない、と一瞬危惧を抱き元親が腕を引っ張る。
「何だ、いまさら臆したか」
「違ぇよ。俺が先に入る」
 一度手を放し、元就が腕を引っ込める前にもう一度強く握って、勢いよく放した。元就は何も言わなかった。
 彼に背を向け闇の中へ足を踏み入れる。
 地面は、ある。手を伸ばしたが近くに壁の類はないようだ。匂いも風もない。出口もない。ただ、振り返るとぼんやりした灰色の灯りの中にぽつんと元就が立っていて、それだけが目印だった。
 頼むから動いてくれるなよ、と願っておいて迷わぬようただまっすぐに進む。
 ある程度歩いたところで振り返り元就を呼んだ。
「おい、こっちだ!」
 声を張り上げると、しばらくして冷たい風が頬を撫で、人の気配がした。元就だろうか、無言で近寄るなよと苦笑して目を凝らしながら触れようとする。伸ばした指の先、柔らかな布に当たりそっと掴むと逆に手首を掴まれた。ひんやりとした感触に体温が下がったような気がする。
「おい、どうした。大丈夫か・・・」
 声をかけて、はっとした。
 とん、とん、と軽い足音が後ろから近づいてくる。闇の中だというのに迷いのない、一定のリズムで地面を踏むその軽やかな音には覚えがある。
「・・・元就か?」
「何を呆けておる。貴様が呼んだのではないか」
 そうだ、確かにそうだ。
 では、今自分の手首を掴んでいるのは何だ?
「元就!来るな!」
 ぎょっとして自分を捕らえているものを振り払い得物を突き付けて構える。姿は見えなくても気配はある。眼の前に、自分と元就以外のなにかがいる。
「どうした」
「いいからそこ動くな」
 敵だ、と呟き、元就のいる方角へ彼をかばうように背を向けた。
 見えない相手が救いの光明だとは毛の先ほども考えなかった。そうであるなら何故何も言わず近づいたのか。
「てめぇは何者だ」
 低く掠れた声で問いかける。無視されるか、と思われたが、やがて雰囲気になじまぬ軽やかで美しい声がくすくすと笑った。
「こんにちは」
「・・・おまえ・・・」
 甘く、鈴の音のように響く女の声だ。だが同時に背筋が寒くなるような妖気が漂い、呼吸が苦しくなる。場違いな声に、けれどまるで彼女のためにあつらえたかのような闇。元親は一歩あとずさるとすぐ後ろに元就が立ち尽くしているのを悟って彼の胴に腕をまわした。いつどんなタイミングで、彼を抱えて走るか、それだけを考えようと深呼吸する。彼女の操る(もしくは操られているようにも見える)黒い手の攻撃範囲は広い。
「いらっしゃい・・・待ってたのよ。一緒に行きましょう・・・?」
 ね、と首を傾げたようだ。無邪気な童女のような雰囲気をまとってはいるが、彼女を囲むのは寂しさに彩られた虚無だ。大事なものを奪われ、利用され、それでも眠ることすら許されずただ現世をさまよい。
「ならぬ」
 ぴくりと元就の体が震えた。小さな囁き声は軽やかな笑い声にかき消される。
 彼女の背負う孤独にひきずられてはならない、と元就の奥底に眠る素の自分が耳をふさぐ。愛しいものを失い、誇りを穢されようとも毛利の家と名を守り。裏切られた報復に罪悪感を捨て、決して揺るがない日輪のみを信仰し。
 自分は彼女のように泣きはしない。甘えることはしない。泣きつく相手も甘える相手もいない。それは捨ててきたからだ。必要ないからなのだ。
「元就」
 心配そうに名を呼ぶ元親の声がただ鬱陶しい。そのような声で我を呼ぶな、と睨みつけようとして、闇の中手探り状態であることを思い出す。
「大丈夫よ、怖くないわ。市がそばにいてあげる」
 寂しいならお人形を作りましょう。
 失った大事な人をかたどって、いつも抱きしめればいいわ。
 ふらりと市の声がする方へ歩み出そうとした元就を強く引き止め、元親は無理やり後ろへ押し戻した。
「迎えに来たの。こっちよ」
 いざなわれる。
 ついていくべきなのか。
 迷いながらしっかりと元就の腕を掴んだとき、後ろから何やら爆音のようなものが響いてふたりは振り返った。
「なんだ?」
「うおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
「あ?」
 聞き覚えのある雄叫びが近づいてくる。炎が迫ってくる、と思った瞬間、強烈な赤い光が周囲を照らし強く目を閉じた。
「無事でござるか!!おふたりとも!」
「え、真田?」
「Hey、まだ生きていたみてぇだな」
「もー、心配したんだからね!て、あれ、お市さんじゃない」
 それまで息苦しかった空間が日常に戻されていく気がした。
 明るく陽気で、自信に満ち溢れたオーラに満ちていく。突如として現れた三人と幸村の持つ二本の得物が放つ炎の光に、元親はやっと呼吸を思い出したように大きくため息をついた。すぐ横では元就が唖然とした表情で立っている。
「おまえら、どうやって」
「どうやってって、おまえらと同じ方法に決まってるだろ」
「ぬるぬるべたべた巻きつかれて気持ち悪かったよ。でもこうするしかなかったし、結果良ければすべて良しってね」
 あっけらかんと政宗と慶次が笑うそばで、幸村が心配そうに元就の表情をうかがった。
「お怪我は?」
「あ・・・いや、大事ない」
「それは良かった。おふたりの姿が見えぬとさまよい歩いておりましたところ、この城を発見したのは良かったのですが、暗闇で迷ってしまって」
 迷子の末適当にふらふら歩いていると元親と元就の気配を感じたというのだから、恐ろしい嗅覚である。
「どうして邪魔をするの・・・?」
 悲しげな声にはっとして全員が市を見た。
「邪魔はしねぇぜ」
 どうするか思案していた元親たちの迷いを断ち切るように、政宗が堂々と腕を組んだ。
「連れて行ってくれるんだろう?オーケイ、行こうぜ」
「独眼竜」
 ここは一度引いた方がいいのではないか、と視線で告げる元親に、だが政宗はひょいと肩をすくめてみせた。不敵な笑みが本当に似合う男だ、と思う。
「戻ったところで行くあてなんてねえだろ。運良くこうしてまた全員そろったんだ、何も恐れることはねえ。ついてこいって言うならついてくまでだ」
 だろ、と振り返ると、幸村も慶次も笑顔でうなずいていた。
「どうしたんだよ元親、らしくないぜ」
 慶次に肘でつつかれて、元親は苦笑しながら頭をかく。
「いや、どうも現実味がなくてよ、ちょっとばかりぼおっとしてたみてえだ。そうだよな、俺らがそろってりゃどんな化けもんに遭遇したところで怖くはねえわな」
「やはり臆しておったのか。鬼の名が笑わせる」
 ついさっきまで色を失っていた元就の表情にもいつもの冷やかさと、ほんの少しの安堵が見て取れた。あらためて彼の手をとると、今度はすげなく振り払われる。睨まれて舌打ちした元親を慶次がにやにやと笑った。
 市に誘われながら先頭を歩く政宗と幸村に続いて元就が後をついていく。そのすぐ後ろを歩きながら、慶次は元親の耳元で囁いた。
「何か進展あった?」
「おまえな・・・。こんな状況でも頭は春かよ。おめでてぇ野郎だぜ」
「何言ってるんだよこんな状況だからだろ。恋には障害がつきものだし、暗闇にふたりきりで何もなかったなんて男が廃るよ」
「阿呆か」
 すぐ前を歩く元就がちらりと振り向いて軽蔑するような目でふたりを睨んだ。それに愛想笑いを返してから元親は慶次の肩を小突く。
「全部終わって、帰ってからだ。それによ、真っ暗闇でアレコレやったって見えないなら勿体ねぇだろうが」
 だろ、と片目をつむってにやりと笑うと、慶次がからからと声をあげて笑った。
「あっはっはっ、そりゃそうだ!」
「おいおい、何盛り上がってんだよそこのふたりはよォ」
 呆れたように政宗が振り返って、幸村も声をたてて笑う。
「・・・まあ、礼を言っておく」
 ふいに小さく呟いた元親に、慶次はぴたりと笑うのをやめて不思議そうに顔をのぞきこんだ。
「何だよ急に」
「いや・・・。何となくだよ。おまえの能天気さにはたまにイラッとするけどな、でも必要だと思うぜ。そういうの」
「何が?ていうかひどいなぁ」
「いいんだよ、流しとけ」
「ふうん?」
 必要だと思うのだ、慶次の明るさや、政宗の自信や、幸村のひたむきさは。
 戦の世が終りこれからは家康の言う太平の世がくるのだろう。そこで必要とされるのは獲物のふるいかたでも人の殺し方でもない。時代をつくっていくという前向きさなのだ。毛利元就という人間の決定的な欠点であり弱点でもある、進化していく、という覚悟だ。あの頃は良かったと過去にある幸せだけを夢に見て、停滞し続けることはもはやできない時代がくる。
 そうなったとき、彼はどうするのだろう。
「おい」
 そのまま考えにふけりそうになっていた元親の腕を、ぺちりと元就が叩いた。はっとして顔を上げると全員が立ち止まり不審そうにこちらを見つめている。
 元親は気まずい表情でがりがりと頭をかくとさりげなく元就の手をとった。今度は振り払われない。基準がどこにあるのか知りたいものだ。
「ああ、悪ィ」
「ぼけっとしてんじゃねえよ、ついたみたいだぜ」
「へ?もう着いたの?」
「いらっしゃい。ずっと待ってたのよ」
 今にも消え入りそうなか弱い声で、市がひらりと後方を仰いだ。
「なんだ?行き止まりか?」
「いや、よく見ろ」
 促されて目を凝らすと、行き止まりだと思った壁は大きな門だった。錆ついてぼろぼろになっている扉は壁にはりつきどうあがいても開きそうにない。
「お市どの、これは開くのでござるか」
 それとも無理やりこじ開けるのか、と槍を掲げた幸村だったが、ぞくっと背筋に冷たいものが走って動物的な勘で飛び退いた。
 地面から黒い手が何本も伸び、市をとりまく。
 汚らわしい、と元就が袖で口元を覆いながら呟いた。
「この向こうに何があるんだ」
 果たして彼女と会話は通じるのだろうか、政宗が問いかけてみる。
 すると市は振り向いて切なげな笑みを浮かべた。美しく庇護欲をそそるが、それに騙されて黄泉へ連れ去られた者を見てきた。手を差し伸べても良いのは彼女の闇に共感できる者だけだ。
(そうだ、大谷は沼地の蝶などと呼ばれておったか)
 病に伏せている悪しき同胞のことを、元就はふと思い出す。
「閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて、」
 歌うような声が次第に低くぶつぶつとした呟きへと変化していく。

 閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて
 閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて
 閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて
 
 閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて
 閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて
 閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて
 
 閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて
 閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて
 閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて
 
 閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて
 閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて
 閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて、閉じ込めて
 

 
「みんな、ずっと一緒よ」

 だから寂しくないわ。



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