不可思議愛憎劇 8


 
 
 
 
 
 国主としてのおまえが欲しい。
 そうとらえていいのだろうか、と考えているうちに夜が明けてしまった。どのみち、合戦の前夜は眠れない。よほど自信のあるときは酒をかっくらって寝てしまうときもあるが、今回はそうはいかないだろうと素面で横になったのが仇になったかもしれない。ぼんやりとする頭を振りながら大あくびをして戸をあけるとすでに兵士たちが出陣の準備をしているのだろう、ざわざわとせわしない空気に満ちていた。
 元就はもう起きているだろうか、と立ち上がる。
「五分五分だな。疲れた顔しやがって」
 それも当然だ。傷ついた足をかばい、訳の分からぬまま襲われ、雨の中戻ってきてから数日と空いていない。しかしそうのんびりしているわけにもいかないのだ。
「アニキ、もう起きてやしたか」
「おお。みんなまだ寝てるのか?」
「さっき毛利と家康さんが広間に入っていきましたよ」
「そうか」
 まさか朝っぱらから喧嘩するつもりじゃないだろうな、と苦笑いを浮かべつつ、井戸で顔を洗い口をすすぐと手早く着替えた。そそくさとそれを手伝おうとする徳川方の侍女をやんわり振り払い部屋の外へ出る。どうにも、自分の身の回りのことを他人に世話されるのは苦手だ。そういうところだけ、元就にちょっと似ている。元親の場合は単に他人の手を煩わせたくない、という配慮からくるものだが、元就は自分に触れる者を許さない、といったところだろうか。何にせよ、彼のぬくもりを知るのは自分だけであってほしいとどれだけ願ったことだろう。
「よォおはようさん」
「おお元親、おはよう。早いな」
「寝付けなくてよ。おまえらも早いじゃねえか、まだ日が昇ったばっかりだぜ」
 とは言っても雲行きは非常に怪しく、分厚い雲が空を覆っていて元就が愛する日輪はぼんやりと陰っていた。気温も昨日より低く肌寒い。風も冷たく、これからあの不気味な場所に行くにはちょうどいいよな、否、悪いに決まっている。
「準備ができ次第出立するぜ」
 のそりと背後に現れた政宗が告げる。元気な雄たけびが聞こえて庭に目を向けると、すでに準備万端といった様子の幸村が二本の槍を手に掲げ力いっぱい吼えていた。
「うん、まあ、元気でよろしい」
 明るく笑って家康が振り向く。音もなく立ち尽くしていた三成が、いつになく静かにいつでも出立できる、と告げた。


 家康と三成、島津、孫市に見送られながら、五人は馬にまたがった。元就の乗る馬の手綱は彼の重臣が心持ち緊張した顔で握っている。どうしても駕籠には乗らないと言い張った元就の我儘のせい、というわけではない。足の遅い駕籠に乗っていて再び襲われた場合逃げ切れないと判断したためである。もしそのような事態に陥っても必ず近くに配された部下が彼の前なり後ろなりにまたがり馬を走らせることができた方が良い。
「結界の中に入れなかったらどうする?」
「試してみてどうしても破れなかったらとりあえず外から攻撃してみるってのはどうだ?」
 先頭を行きながら振り返る慶次に半歩遅れるように並んで政宗がにやりと笑った。相手が正体不明の敵であっても、戦の前に高揚するのは抑えられない。どうとでもなる、と半ば確信めいたものを持っている彼をたのもしそうに見ながら慶次もうなずいた。
「普通に考えれば、たとえ外からの攻撃を跳ね返すような力を持っていたとしてもそれが延々続くとは思えないんだよね。どこかに隙はあるだろうし、そもそも超常現象なんて俺あんまり信じ・・・てない、こともない」
「おいおい思い切り気にしてるじゃねえか」
 段々と小さくなる語尾をからかって、政宗はけらけらと笑った。
「しかし雨が降れば厄介なことになりそうでござるな。雲が重たそうにしている」
 心配そうに空を見上げる幸村につられてそれぞれが天を仰いだ。進むにつれて霧も濃くなり、さらに悪天候ともなれば気が滅入る。
 彼ら五人の後ろからついてくるのは三百ばかりの兵士たちである。ほとんどは三成が選んだ徳川の兵で固められているが、そのうち政宗らが国元から連れてきた少人数の護衛たちも含まれていた。それぞれの軍の兵士たちがきっちり整列する中にあって毛利の兵だけは元就を囲むようにそれとなく周囲の警戒にあたっている。それを誰も指摘しなかったし咎めることもなかった。三成や家康が何も言わなかったので口を挟む気もなかったのだろう。意外と毛利の兵は厳しい主君に対して過保護なのだなあとこっそり心の中で笑うだけだ。統率さえとれていれば問題はない。
 金ヶ崎に進むにつれ周囲の景色が変化していく。まだ朝だと言うのに視界が暗く、ぼんやりした闇の中に白い靄がかかって気味が悪い。ついてくる兵士たちも落ち着かずざわざわと声が波のように広がって行った。
「おい、全員あまり離れるなよ。なるべく固まって動け。迷子になっても知らねえぞ」
 あまり脅かさないように、元親が少しだけ笑いながら兵士たちに告げる。すぐ隣りで馬にまたがったまま元就は沈黙していた。彼が信仰する日輪は雲の向こうに隠れたまま顔を出そうとしない。それが不満なのだろう。
「なあ、あんたは雲を裂くことができるか?」
 ふいに尋ねられて顔を上げる。
「何?」
「雲を裂いてお天道さんを引っ張りだせるのかって聞いてるんだよ」
「はあ?」
 何を訳の分らぬことを、と睨みつけながら、首を傾げて返事を待つ男に向かって馬鹿にしたように言った。
「人が日輪を支配できると思うてか」
 我にできるのは祈ることだけだ、と続けて、見えなくなってしまいそうな前方の背中を見つめる。
「だが祈れば加護はあるのだ。いつでも」
 何しろ我は日輪の申し子ぞ、と自信ありげな様子につい笑ってしまう。
「ああそうだな。そうだった」


 なんだこりゃ、と誰かが呟いたようだった。
 荒れた地面を踏み慣らしながら見上げるのは巨大な竜巻だった。黒と白が混ざりあい高く天へ昇る、不気味な竜だ。中からはうめき声のような、獣が吠えるような奇妙な声がときどき漏れ聞こえ、気の弱い者ならすぐさま逃げ出したくなるような耳障りな音をたてる。がしがしと地面をかく音が混じり、それがこちらへ向かっているような気がして政宗は一歩あとずさった。
「この中に入れって?いくらなんでもちょっと」
 気持ち悪いね、とあっさり誰もが思っていることを言ってのけ、慶次はこわごわと竜巻に近づいて行った。
「これが結界?どう見てもただの竜巻みたいだけど」
「竜巻は一か所にじっとはしないだろ。おまえらちょっと離れてろ」
 言って、元親は落ちていた小石を拾い上げた。全員が少し離れたのを確認すると一度肩を大きくまわし、竜巻に向かって石を放り投げる。
 ばちっと何か固いものに当たったような音をたてて石がはじけ飛び、あらぬ方向へと転がって見えなくなっていった。
「・・・駄目みたいだね」
「一発ずつ入れていってみる?」
「おりゃああああああああ!!」
 慶次が言い終わらないうちに、幸村が炎の噴く槍を掲げ突っ込んでいった。
「おいおい!待てって!」
 慌てて引き戻そうとする政宗の腕は虚しく空振り、そのまま幸村の振り上げた槍の先が竜巻にぶちあたる。そのまま空間を裂こうとするように力を込めたが、やがて激しいうねりと回転に耐えきれず幸村もまた小石のようにあっけなく吹き飛ばされた。
「うおおっ?これは厄介でござるな」
「どんな感じだ?」
 六爪のうちの一本を抜きながら感想を求める政宗に、素早く立ち上がって幸村が再び駆け寄る。
「固い!」
「いやそれは分かってるよ」
 仕方ねえな、と今度は政宗が試してみたが、どうやら超高速で動く物体に引きずられるようにして弾き飛ばされるようだった。刀を突き刺そうとしても隙間さえない場所に食い込ませることができない。動く壁のようなものだ。あまりに巨大すぎるため速度はそうないように見えたが目の錯覚なのだろう。このまま体当たりすればまず間違いなく吹き飛ばされるか全身骨がばらばらになって終了だ。闇雲に当たっても砕けるだけだと武将たちは困惑して顔を見合わせた。
「上から入れないのかな」
「どうやって?空でも飛ぶつもりか?」
「佐助なら・・・」
「雲の上まで竜巻突っ切ってるけどおたくの忍どこまで飛べるの?」
 のんびりした会話にも聞こえるが、彼らの額にはうっすら汗が滲んでいた。このまま何もできず引き返すような真似はご免だ。だが中に入らないことには、と一行が黙りこむ。それを兵士たちは不安げに見守るだけだ。
 ぴしっ、と再び石が地面を弾くような音が響いた。気にも留めず考え込む政宗たちだったが、ひとり元就が部下の手を借りて馬から降りると眉間に皺を寄せて辺りの様子を伺う。
「どうした?」
 大丈夫か、と彼に歩み寄ろうと元親が動いたとき、ぐらりと地面が揺れ、竜巻の色が変化していく。黒と白が混ざりあい、やがて濁った灰色へと変わり、膨張するようにところどころが大きく揺れる。
「おい、やばいんじゃないのか」
「離れろ」
 慶次がピッと鋭く口笛を吹いて愛馬を呼び寄せた。慌てて周りにいた兵士たちも駆けだし、彼らを追うようにして馬にまたがった政宗たちが走る。すでにこのような事態を想定していた部下によって難なく元就も馬に乗せられ元親とともにその場から離れた。その間にも灰色の竜巻は膨らんでいき、それまで彼らが立っていた地面をも飲みこんでさらに増大し続けていく。地面が割れ、おそらく結界の中から滲みでているのだろう真っ黒な靄が周囲を浸食していった。周囲は霧に覆われ空気が冷えていく。
「離脱だ。あそこの丘まで全力で逃げろ!」
「丘でいいの?もっと遠くまで逃げた方がいいんじゃないのかな!?」
 ばくばくとうるさい心臓の音に負けないよう声をはりあげて反論した慶次に、先頭を走る政宗がわずかに振り向く。
「いや、勢いが落ちてきた。見ろ」
 ほら、と促された先には、膨張は続けているがそれまでの勢いがそがれた灰色の竜巻がまるで生き物のようにうねり、足踏みしている。
「もう少し離れときゃ大丈夫だろ」
 な、と少しだけ遅れて逃げてきた元就を振り返り、元親の顔がひきつった。
 腕だ。
 巨大な灰色の竜巻からのびる、幾重もの長い、白い手がこちらを掴もうとしている。
「おい、なんだよこれ、こんなのさっきまで」
 背後の異常に気づいた慶次と政宗が慌てて手綱を引いて思わず立ち止まる。
「な、何あれ!?ちょっと、まずいって!とりあえずふたりとも速度上げて逃げろ!」
「おふたりとも急いで下され!」
 いつの間にか慶次たちと、そしてこちらを追ってきていたはずの元親、元就らの距離が大きく開いていた。ひとりだけを乗せて全力で駆けるのと、元就とその部下のふたりを乗せた馬とでは明らかに速度が違う。それに合わせて走っていた元親もまた政宗たちと離されていた。
 女のような白く血の気の失せた長い腕は何本も、何本も竜巻から這い出て霧の間を縫い、襲いかかってくる。元就の後ろにまたがっていた部下が右手の手綱を元就に掴ませ自分の刀を抜いた。
「元就様、いざというときは、私が囮になりますゆえ、」
 何とぞお逃げください、と息を切らせて言うも、後ろを振り返った元就の耳には届かなかった。
「ならぬ!」
 それは部下を引きとめる言葉ではなかった。
 すぐ横に現れた腕がひたり、と元就の体にまとわりつく。
「元就!」
 とっさに己の獲物でそれを振り払おうと元親が動いたが、別の腕が蛇のように碇槍に巻きつき勢いを殺した。
「くそっ、気色悪いんだよこの野郎!」
 不安定に揺れる馬上で腕を引きはがそうと力を込めるが、白い腕は吸いついて離れずさらに別の腕が何本も元親を襲った。後ろに引っ張られた馬が驚いて嘶き暴れだす。
「長曾我部!」
 胴体に巻きつく腕を片手で振り払おうとしながら、元就は右手を伸ばした。バランスを崩した馬がつんのめり重力にひっぱられて元就とその部下が振り落とされる。大きな衝撃とともに地面にたたきつけられ、一瞬意識が薄れると同時に足に白い腕が巻きついて引きずり始めた。
「おい!」
 政宗たち三人が獲物で白い腕を振り切りながら駆け寄ろうとする。
 目の前に赤いものが散って元就が必死に顔を上げると、主君を守ろうとした忠臣の首が鋭利な刃物で斬られたかのように胴体と引き離され、ごろりと転がった。
 暴れる馬から振り落とされ同じように引きずられる元親と目が合う。鬼の片目は怒りと焦りで燃えるような色を放っていた。
 幸村の炎が白い腕をいくつも焼いてはこちらに手を差しだそうとするが、もはや何百と伸びる腕がそれをことごとく邪魔をする。元就の胴体と足を何重にも捉えた白い腕はずるずるとものすごい力で灰色の結界へと引きずり込もうとした。地面に爪をたてて抵抗するもまるで歯が立たない。やがて巻きつかれた部分が痺れ、腕も足もまるで力が入らなくなっていった。
「う、あ、あ・・・!」
「くそッ、元就!手を伸ばせ!畜生がァッ!」
 すでにびっしりと白い腕に巻きつかれた碇槍をそれでも放そうとせず、元親は地面に突き立てて引きずられるのに抗い手を伸ばした。届かない距離ではない。だがそれまで伸ばされていた元就の腕はぐったりと投げ出され、傷ついた小柄な体は完全に力を失い、名を呼ぶ声ももう聞こえなかった。抗う元親と引きずられていく元就が離されていく。このまま自分だけ抵抗するか。それともいっそ元就と一緒に結界の中へ連れて行かれるか。元親は一瞬迷った。
「元親!」
 慶次が叫ぶ声が聞こえる。
「大丈夫だ、待ってろ!」
「おい、西海の鬼、てめえ何言ってやがるとにかくおまえだけでも、」
「待ってろ!」
 そう怒鳴り返すと、元親は地面に突き立てた碇槍を握っていた手を放した。その途端勢いよく白い腕に引きずられていき、もはやそれに抵抗する手立てはない。
「元就!おいしっかりしろ!」
 かなり引き離された先で動かなくなった元就の名を何度も呼んだ。
「おまえひとりじゃねえからな!」
 白い腕の洪水の中で、いつも触れる度に柔らかいなと愛しく思った狐色の髪が見える。すでに灰色の結界は目前にあり、いくら攻撃しても弾き返すばかりだったその中へいともあっさりと体を飲みこんでいった。沼底に落ちていくような不快でねっとりした感触が全身を覆う。
「元就!」
 ちくしょう、鬼の名が聞いて呆れる。
 口元を歪ませ自嘲しながら、元親の意識はゆっくりと沈んで行った。


*     *     *


 あんた、寂しいって思ったことねえの?
 くだらぬ。そのような感傷我はとうに捨てたわ。

 そっけない返事に肩をすくめて杯を煽る。せっかくの上等の酒だがあまりおいしいと思わないのは、酒を酌み交わす相手が悪いからだ。酌み交わすもなにも飲んでいるのは元親だけだったが。
 適当にやれと、酒と杯と細々した肴を出した後は完全に放置である。
 そのくせ元就は濃い茶と餅を交互に飲みこみながらこちらに背を向けたまに相槌の代わりに冷ややかな視線を送るためだけに振り返る。
「なあ、俺一応同盟相手なんだが。これ宴の延長だよな?何で俺だけ飲んでんだよ」
「我は酒は飲まぬと何度も申したはずだ」
「いやそれは聞いたけどよ、舐めるくらい付き合ったっていいだろうが。大毛利の国主様は礼儀も知らねえのかよ」
「海賊ごときが礼儀を語るとは」
 笑わせる。
 馬鹿にしたような口調にかちんときて睨み据えるが、真正面から睨み返してくる玲瓏な目があまりにも美しい、と元親は怒りを忘れて息を飲んだ。
「賊と酌み交わす杯など毛利にはない」
 国主ならば国主らしく姿勢を正せ。
 そう告げる冷たい口調も、何だか許せるような気がして。
「俺は奇麗なお宝が好きなんだ」
 唐突にそんなことを言いだした元親に、彼は興味ないというふうにそっぽ向く。
「それがどうした」
「いや、この杯奇麗だよな。俺の好みだなって話さ」
 取り繕うな台詞を吐く元親に対し元就は大いに侮蔑の表情を浮かべたのだった。
 天下分け目の戦が起こる、ずっとずっと前の話だ。


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