不可思議愛憎劇 5






 
 
 兵士たちに、足を止めるよう指示を下し孫市は八咫烏を構え油断なく辺りを見渡した。次第に雨脚は強くなりやがて激しく体や顔を叩く。駕籠を守るように周囲に兵が集うのを確認して、毛利に出るなよと一言告げた。
 雨に押し流されたか、ガラガラ、と小石が転がり落ちては地面にぶつかる。ひときわ大きな小型の岩が落ちてくるのを避けると同時に、ふっと足元一帯が黒い影に覆われた。
「避けろ!」
 怒鳴って飛び退く。慌てて兵士らがたたらを踏んで散開した。
「どうしたの?」
 やけに場違いな、おっとりした女の声が響く。
 決して大きくはないそれが、はっきりと雨の音と区別されて耳に届くのが不思議だった。鈴のような、それでいてぞっとするような妖気を孕んでいる。
「ねえ、どうしたの?」
 ぼんやりと薄暗い霧から突如として現れたのは、探していたはずの人物だった。
 漆黒の長い髪と濡れたような瞳。華奢な体がゆらりと揺れて立ち尽くしている。ぎょっとした兵士らが獲物を構えたが、すぐに相手が探し人そのものであることに気づいたのようで困惑したように孫市を見た。
「第五天」
 低く呟いた孫市に、市は顔を上げた。
「何故ここにいる?みんな探していたのだぞ」
「探して?どうして?市は帰るの」
「帰る?どこへ?」
 童女のように無邪気に、市はふふふと笑った。
「だって呼んでいるもの。あっちに市のおともだちがたくさん」
 ほら、と差し伸べる腕はか細く、頼りないようでいてはっきりとした意思を持っていた。指し示された方向をちらりと横目で見てすぐに視線を戻す。彼女から目を離すわけにはいかない。彼女がもつ特殊な黒い影。魔手と呼ばれるそれは広範囲にわたって影響を及ぼすことができるからだ。今はぎりぎり届かない距離だが、ほんの一歩二歩動けば容易く魔手に飲み込まれるだろう。駕籠を掲げ持ちいつでも逃げ出せるように腰を落としている兵士らに目配せし注意を促すと、孫市は僅かに狙いを定めた。
「金ヶ崎へ行ったのか?」
「金ヶ崎」
「おともだちがたくさんいるのだろう?」
「そう・・・もうすぐ溢れるの。今はね、大きく空いた穴からどんどん出てくる。嬉しい」
 心底嬉しそうに、市は声をたてて笑った。
「ねえ、一緒に行きましょ?お迎えに来たのよ」
「迎えに?誰を?」
「だって、」
 ことりと首を傾げ市は黒々とした瞳を瞬かせた。
「だって、今ならその人を飲みこめるもの。白い鳥さんがね、とても強い太陽の光の話をしてくれたの」
「白い鳥?」
 話が掴めない。
 ほんの些細な変化にも対応できるよう集中しながら孫市は考える。とても強い太陽の光、と言うのは何だろう。その人を飲みこめる?白い鳥とは何を意味しているのか。
「孫市どの」
 すぐ近くで警戒していた徳川の兵が囁いた。
「おそらくお市どのが言っている、白い鳥、というのはおそらく巫どののことかと」
「姫の?」
「はい。金ヶ崎でお市どのと遭遇したとき殿と一緒に巫どのもおられたのですが、お市どのが巫どのに向かってそう呼びかけるのをこの耳で聞き申した」
 確かに鶴姫が、お市ちゃんがお市ちゃんが、と話していたのは覚えている。お友達になった、とにこにこ笑いながら報告してくれた。
「ねえ、もう連れて行ってもいい?今じゃないとだめなの」
 だから、それを市にちょうだい。
 言い終わらぬうちに、市の背後に現れた巨大な黒い手がぐんと伸びて駕籠に掴みかかろうとした。
「!!」
 とっさに巻き添えを食らわぬよう横跳びに逃れ、同時に魔手に向かって弾丸を撃ち込む。僅かにひるんだ隙に籠へ駆け寄り、中から元就を引きずりだした。気遣っている余裕はない。つい力の限り腕を掴んでしまったが構っている暇はなかった。会話が聞こえなかったわけでもないだろうに、何事かと反応できないでいる彼を駆け寄った兵士らに放り投げるとすぐに離れるよう手で振り払う。
「くるぞ!」
 慌てて元就を受け止めた兵士たちが下がり、孫市と彼女に従う兵たちがそれぞれ獲物を手に構える。足元の悪い崖の道、一歩間違えれば転落死は免れない。雨はさらに激しくなり、ぬかるんだ地面と視界の悪さという悪条件につい舌打ちする。三成が自ら選んだ偵察隊はなかなかのつわものぞろいだ。相手はひとり、怪我人を守りながら戦うことにそれほど迷いはないが、少しの油断が命取りになる。
 この場から離れさせるか、それとも背にかばった方が安心か。ここが広い平地であれば護衛をつけて遠くへ逃げさせる方を選ぶが、この場でそれをしようとするならば道を塞ぐように立つ市を遠ざける必要がある。崖の壁、反対側は深い奈落、下ってきたばかりの斜面、そして足元をすべらせる濡れた地面。
 いくつもの黒い手が襲いかかる。それを避け、あるいは銃で牽制し振り払いながら孫市は考える。
(殺気がない)
 無邪気さ、というのは時に恐ろしい、と思った。まるで小さな子供が虫を踏みつぶすような無垢さ。市から放たれる気はまさにそれに似ている。
 ふわりと魔手が市を抱え上げ、彼女が宙を舞う。こちらへ飛んでくる。合図する間もなく、毛利を抱えたままの兵たちが走った。回り込むようにして市と孫市らの立ち位置が逆になる。
「行け」
 鋭く言い放った。先に行け。崖を駆け降り、この場を去れ。 


 雨が地面を叩く音に混じって、微かに銃声が聞こえた。
 はっとして元親は一度手綱を緩め、周囲を窺がう。ダン、ダン、ダン、と一定間隔で放たれる迷いのない音には覚えがあった。
 三成らが向かった大体の場所は掴んでいるが、正確には分からない。だがあの銃声が位置を知らせている。孫市が銃をはなっているということは無論、敵と交戦しているという何よりの証だ。彼女の腕は確かだし三成や幸村が一緒ならば特に何の問題もないだろう。そうは思いつつ気は急いて、元親は全力で馬を走らせた。どうどうと滝のように襲いかかる雨の中、周囲は白い霧に覆われ視界が悪い。銃声は一度止み、やがて断続的に響くのを繰り返す。その音だけを頼りにひたすら馬を走らせる。目の前に突如として立ちふさがるのは頂上が霧に覆われ見えない崖だった。迂回するにもどれだけ伸びているか分からない。目を凝らすと人ひとり通るのがやっとな獣道が続いていた。雨にかき消されほとんど分からないが、雑草を踏み荒らしたような痕跡が残っている。
「ここをのぼったのか」
 駕籠を担いでか、と呆れたような顔をして、そのまま元親はゆっくり馬を促す。駆けあがりたい気持ちはあるが視界不良の中崖を全速でのぼるなど無謀にもほどがある。元親は決して短慮な人間ではなかった。一歩一歩先を確認するように慎重にのぼっていく。やがて銃声が一発轟くのが、はっきりと聞こえた。馬を下りてなだめるように一、二度撫でると、待ってろ、と優しく声をかけて今度は自分の足で駆けあがって行く。肩にかついだ馴染みの獲物が道に突き出した木の枝を何度か裂いて行った。
「孫市!」
 もうもうとたちのぼる白い霧の中、ようやく身知った背中が現れる。孫市は振り返らず、少しだけ笑ったようだった。
「来ると思っていた」
「何だよ予測済みか。毛利は?石田たちはどうした」
 と、孫市が答える前に屈強な兵士におそるおそる抱え上げられた姿を発見して、思わず苦笑した。元就は不機嫌さを隠そうともせず元親を睨みあげる。彼が口を開く前に元親は孫市と対峙する市を見て目を見開いた。
「どういうこった」
「さあな。だが金ヶ崎での不穏な何か、と彼女は何か関係があるようだな。毛利を襲った」
「なに?」
 何故だ、と疑問をそのまま口にするが、誰も答えられなかった。
「石田と真田は先へ行った。とりあえず、元親、おまえは毛利を連れてここから離れろ。動けない怪我人にいてもらっては思うように動けない」
「容赦ねえな」
 笑って、ちらりと元就の様子を伺うと案の定今にも怒鳴りだしそうな形相をしている。動きたくても動けない苛立ちは相当なものだろう。無理やり連れ出された挙句理由も分からず襲われた上、今度は邪魔だから連れて行けと言う。自分でもこれは激怒するな、と思いつつ、毛を逆立てる猫のような元就に近づいて手を差し伸べた。
「ほら、ここは孫市たちに任せてあんたは俺と戻ろうぜ」
「黙れ愚劣な・・・!」
 喉の奥から恨めしげな声を上げてその手を振り払おうとする。その動きに、彼を抱きかかえていた兵士がバランスを崩してよろめいた。
「おっとあぶねえ」
 せりふとは裏腹にどこか楽しんでいる様子さえ見える。そうだ、この男はそういう男だ。元就は支えられた腕に仕方なく捕まりながら、筋肉に覆われた硬い腕にそれこそ猫のように爪をたてた。
 元就が不機嫌になればなるほど、元親は笑うのだ。そんなに人を不愉快にさせるのが楽しいのか?だがそう尋ねても元親は否、と答える。ただ、そうやって怒るのは俺に対してだけだよな、などと意味不明なことを言う。あんたの感情を揺さぶることができるのは俺の特権だよな、などと。
(特権?特権だと?我を不快にさせるのが?)
 ぐるぐると思考の海を漂いだした元就を、慣れたように肩の上に抱きあげてふたりのやりとりをおろおろしながら見ている兵士たちにうなずいてやった。
「こっちは大丈夫だ。それより孫市の援護を頼む」
「はっ」
 西海の鬼がそう言うのなら、どうなのだろう。もとより徳川の兵たちは、主君である家康と親友とされる元親のことも好きだ。国主であり鬼と呼ばれ腕っ節が強く豪快で、そして仲間思いだと知っている。
 深くうなずいて孫市の元へ兵たちが駆け寄るのを確認すると、抱えた元就の背中を軽く叩いて、足元が滑らないように元来た獣道を下り始めた。背後に響く銃声や怨嗟にも似た暗い慟哭にも振り向かない。
「おい、おろせ」
 耳元で元就が苛々と怒鳴る。
「長曾我部!」
「うるせえなあ」
 暴れる細い体が自分と同じようにぐしょぐしょに濡れていることに今更気づいて少しだけ慌てた。だがどうしようもない。ここへ来るまでの間に雨宿りできそうな場所などあっただろうか。
 彼の体を抱き上げる腕にぐっと力を込めると、その頼りなさと濡れそぼった布の上からでもはっきりと伝わる熱い体温に元親の胸の奥に小さな火が灯った。
 こうして触れるのはいつぶりだろうか。獲物を交えず、ただ慈しむように触れるのは。彼の体はこうまで軽かっただろうか。だがその熱はしっかりと覚えていて、肌のなめらかさや匂いまでもが再現されるようだった。
「・・・長曾我部?」
 ふいに黙りこんだ元親に、不審げな声音で元就が呼びかける。彼は気づいたのだろうか。雨にうたれながら、かつてひとときだけ浸っていた陽炎のような甘い時間を思い返す元親の、目の色に。
「なあ、あんたさ」
 動揺を隠そうとする元親の顔は困惑したような、気まずいような、そんな表情をしていた。そして告げる言葉は子供じみていて、それが何だかおかしかった。
「ちゃんと飯食ってんのか?」
「はあ?」
 何を言っているのだ貴様、阿呆か。死ね。
 繰り出される罵倒の数々はずいぶん耳に馴染んだもので、もうその程度ではいちいち腹を立てたりしねえんだよ、と、元親は鼻を鳴らしてなるべく濡れないようにと大きな枝の茂った下で待たせていた馬にまたがり、悪態をつくのをやめない元就を前に乗せ手綱をとった。こじんまりとした体は狩衣が水を大いに吸ったせいかやたらしぼんで見える。だが触れたときの熱さは、と左手を彼の腰にまわすと嫌がるように元就は身をよじった。
「あんた熱でもあんのか」
「うるさい、我に触れるな」
「触れるなって言ってもよォ」
 見下ろすと、髪の間からのぞく耳が赤く染まっている。いよいよこれは熱でもあるのではないかと心配して元親はなるべく彼の怒りを刺激しないように声音を柔らかなものに変えた。
「怪我人だもんな、具合悪くしたんじゃないのか」
 うるさい雨音をかき分けるように元親の少し掠れたような声が響く。それがやけにくすぐったい、と一瞬だけ元就は目を細めた。前に乗っていて良かった。元親が大きな体を屈ませてのぞきこまない限り、表情を見られることはない。
 今自分がどんな顔をしているか、もし元親が知れば笑うか、それとも困惑するだろうか。
(懐かしい)
 久し振りだ、と言うよりももうずっと昔のことのようだ。背中に他人の体温があるというのは。もしこれが元親でない他の誰かであれば、決して元就は体を預けるようなことはしないだろう。たとえ怪我を負っていたとしても、死ぬほど体調が悪くても。それを元親は理解しているだろうか?
 特別なのだ。なぜそれが分からないのだろう。ここまで譲歩してあげているというのに、どうにも伝わっていないように思う。かの戦で、厳島で関係性を絶ったからだろうか。もう何も感じないのだろうか。こんなにも、場違いな場所で、場違いな状況で、ただひたすら息をつめて暖かな体温に安心しているなど。きっと元親は気づいていない。そう考えると何故か叫びだしたくなるような激しい怒りと、子供のように泣きじゃくりたい気持ちとがまぜこぜになってつんと目の奥が痛くなった。今ならうっかり涙が流れても雨のせいに見えるだろう。冷静な顔をつくるのは得意だ。微かな声ひとつたてることなく元就は泣ける。まるで精巧な人形が一筋涙をこぼすかのようにひっそりと、誰にも気づかれることなく、一瞬だけ泣くのだ。そして何事もなかったかのように人を殺せる。
 腕の中の体温がさらに上昇したような気がして、元親はうろうろと雨を避けれる場所を探して目をさまよわせた。ここまで濡れ鼠になっておいていまさら雨宿りも何もないのだが、このまま馬を飛ばして戻るにしても視界の利かない霧の中、どうしても時間がかかる。
「毛利。大丈夫か」
 僅かに俯いた元就の、真っ白なうなじを努めて見ないようにしながら声をかける。無言でこくりとうなずく仕草に、本格的に具合が悪いのではないかと不安になった。
「なあ、何でそこに第五天がいたんだ?」
「・・・知らぬ」
「金ヶ崎のことと何か関係あるのか・・・いやあるんだろうな。でも何故あんたを襲う?」
 元就の答えを期待しているわけではないのだろう。ひとりごとのようにぶつぶつ呟きながら、元親は話しかけ続けた。
「やっぱり鶴の字の占い、ていうか鬼島津の解釈ってえの?ほら、光の力でずばーんとってやつ、あんたのあの変な技のことじゃねえかって言う」
「変な技とは何だ失礼な奴め!」
「おっ」
 とっさに振り向いて怒鳴りつける元就の顔は、雨に濡れてまるで泣いているようだ、と元親は思った。
 弱々しく見えるものを見つけたら、それを優しく抱きこんでやらねば気が済まないたちだ。それがたとえ表向きの仮面であったとしても、騙されるかもしれないと分かっていてもはねつけることのできないのが長曾我部元親という人間である。だから、一度でも、一瞬でも、泣いているようだ、などと思ってしまえばもう疑う余地はない。
 優しくしたくなる。
 腰にまわした腕にぐっと力をこめて、片手で上手く手綱を操りながら、何事かと口を開きかける元就の濡れた額に唇をつけた。
「なっ・・・・」
 何をする、と顔を真っ赤にして怒鳴るのをからからと笑い飛ばす。
「そんな顔すんなって。せっかくの美人が台無しだぜ」
 中身は性悪のくせにな、といらぬ一言を付け加え、必死に押しのけようとする弱々しい抵抗を無視しながら一寸先すらも見えない霧の中を駆ける。
 ふいに、遠くの空が僅かに晴れたように見えて手綱を引いた。馬はひとつ大きく嘶いて立ち止まる。
「なんだ、急に」
 元就が無意識に元親の腕を掴みながら睨み上げる。
「いや、ほらあそこ」
 促す方向は件の金ヶ崎方面だ。雨の中、暗い煙のような霧が渦巻いているのは変わらないが、その上空が少しだけ明るくなっている。そうかと思えば竜巻のような渦が地上から紫色に変化しつつある空へ伸びていて、一本の大きな柱のようだった。
「石田と真田が見に行ったが・・・まるで奇跡のようだな」
「奇跡?」
「天空から降りてくる天人の階段かもしれぬ」
「本気で言ってんのか?」
 疑わしげに顔をのぞきこむと、元就は自嘲するように小さく笑みを浮かべた。
「天女であればあのような禍々しい階段など使わぬだろうがな」
 天から降りてくるのは天女ばかりではない、と彼は言う。
「逆かも知れねえぞ」
「逆?」
 何だそれは、と首を傾げる腕の中の人に、元親は冗談を飛ばすように喉の奥でくくっと笑う。
「地上から天に昇る階段かも知れねえだろ」
 行ってみるか、とからかうように言われて、元就ははっきりと眉をしかめた。
「まだ斯様な時ではない」


>>