政宗と幸村は部下を数人連れて馬を走らせていた。
ここへ滞在して一週間、そろそろ自国へ戻らねばとは思いつつ、優秀な家臣たちが守っているからそう心配することもないだろう、と考えている。小十郎は言外にさっさと帰ってこいと目が訴えていたような気もするが最近はあまりうるさく小言を言わなくなった。信玄の容態は安定しており、天下二分の戦以来彼のそばを離れようとしなかった幸村に対し、新しい世を作ろうともがくかの男をしっかり見物してこいと笑って突き放したのだった。
「政宗殿、あれを」
ついと指をさす方向に目を向けると、辺りは太陽が燦々と輝いているというのに何故か一部の上空だけ暗雲が漂っている。もうもうと霧のようなものが立ち込めており、異常な光景に包まれていた。
「あれは・・・」
「もっと近くへ行ってみましょう」
「そうだな」
それとなく木々の間などに目をこらし市の姿を探していたが、それまでこの日差しの強い道を歩いてきたとは思えない。
ふたりはうなずきあうと、ひとまずあの霧に包まれた場所を上から見下ろそうと崖を登り始めた。暗い雲に覆われた場所はここから距離がある。まずは遠くから見渡す程度にとどめ、何かあれば家康に言って兵を出す方が賢明だろう。
「あっちの方向は確か、金ヶ崎・・・」
お市殿がいた場所だ、と呟く幸村に、政宗はひどく嫌な予感がして無意識のうちに舌を打った。直接そこで市に会ったのは家康だが、話を聞く限り愉快な場所とは到底思えなかった。
数刻して戻ってきたふたりの説明は、いまいち要領の得ないものだった。
すでに日は暮れかかっており、夕餉の準備にせわしなく侍女たちがすり足で廊下を歩いていくのを横目にしながら武将たちが広間に集まる。孫市に連れられた元就の姿もあったが、彼は何やら考え込んでいるようであまり積極的に話を聞いているふうではなかった。
「つまり・・・金ヶ崎付近の空だけが真っ暗だったと」
「ああ。あとそのあたり一面濃霧に包まれているようだ。何か起こってるのかもしれねえ。一度兵を出して偵察に行った方がいいんじゃないか?」
「ふむ・・・。どう思う三成?」
「おまえが決めることだ家康。だが偵察に行かせた方がいいと言うのは賛成だな」
むっつりと三成が答えてちらりと元就と元親の方を見た。ふたりは一番離れた場所に座っている。ずいぶん大人しい元親に対し、気にするふうでもなくあれやこれやと慶次が構っているようだがあのふたりはそれほど仲が良かっただろうか?
「よし、では明日兵を一部隊偵察に向かわせよう。すまないがどちらか明日も場所を案内してもらっていいか?ある程度近づいて見てきてもらおうと思うのだが」
「ああいいぜ。おまえも行くだろ幸村」
「分かった」
「すまないな。そろそろ戻らなければならない頃合いだろうに。皆も」
言いつつ、家康がさりげなく元就を見る。だが彼は誰とも目を合わせようとせず、僅かにうつむいたまま表情を隠していた。困ったように隣りに座る孫市へ視線を投げかけるが小さく微笑まれるだけで、肩をすくめる。彼のことはひとまず、後回しにするしかない。
「元親は国は平気か?」
「あ?ああ、まあ大丈夫だろ」
国を出て漫遊していた間にあのような目に合った教訓からか、しばらく元親は四国から離れなかった。どうにか立て直しも目途がついたところで少しだけ余裕が出てきたのだろう。彼を慕う優秀な部下たちや後継ぎがしっかりと支えている。それは中国も同じことで、ただあれだけ自国の安寧に固執していた元就がずいぶんと大人しいのが気にかかる。
「ん、どうしたとね?」
廊下に近い場所に座っていた島津が外の足音を聞きつけて障子を開け放つ。
しばらくして徳川の家臣がしずしずと入室を求めてやってきた。
「海神の巫女殿から至急の知らせでございます」
「巫女殿から?」
ぴくりと元就が反応して顔を上げた。
差し出された文はやけに短く、慌てて出したものなのだろう文字もぐにゃぐにゃで、しかも意味不明である。
「何て書いてあるんだ?」
「ああ・・・。『大変です、結界が壊れる前に光の力でずばーん!とやっつけちゃった方がいいですよ!あとお市ちゃんに気をつけて下さいね!』だそうだ」
「はあ?」
その場にいた全員が首を傾げる。
「どういう意味でござろう?」
「さあ」
何か大変なことが起こると占いで見たのだろうが、これでは気をつけようがない。もう少し分かりやすく伝えてくれればいいのに、と誰もが思う。
「結界とは何だろうな。ふたりが見たあの濃霧と関係があるのか」
「ああなるほど。じゃあ光の力って何だ?」
「あ、あれじゃなかと?毛利どんの、ぴかーって光るあれ」
島津の分かるような分からないような思いつきに今度は元親がびくっと肩を揺らして反応した。いちいち分かりやすい。
「そうなのだろうか?」
おずおずと声をかけてみたが、じろりと睨まれて思わず腰が引ける。
「知らぬ。あのような小娘の言うことなど我には理解できぬゆえ」
元就はぼそりと不機嫌そうに呟くとむっとしたように再び黙りこんだ。
「仕方ない、毛利おまえも偵察に付き合ってもらうぞ。私も行く」
「なに?」
三成の言葉に、元就はひどく嫌そうな顔(通常である)で睨んだ。
「我にわざわざ出ろと?貴様」
「そ、そうだ三成。毛利殿は怪我をしているし・・・もしかしたらわしが何とかできるかもしれんだろう?」
「貴様のは光の力ではなく拳の力だ頭突きでもいい」
「せめて絆って言ってやれよ」
政宗が突っ込んだが誰も聞いていない。
「どうすんの元親」
「なんで俺に聞くんだよ」
慶次に囁かれて、元親は拗ねた子供のように唇を尖らせた。
これでは、じゃあ俺帰るわ、と言い出せない雰囲気だ。確かに行方不明になった市や金ヶ崎の異変のことは気になるが、意味不明な鶴姫の手紙でああだこうだ言っても仕方ない。自分が偵察に出てすぐ解決するのなら言ってもいいがどうやら出番はなさそうだ。
「殿。城下で不穏な動きがあるとの報告も上がっております。急を要するものではないようですが、殿はお出になりませんよう」
そう家康に進言するのは彼の忠実な家臣のひとりで、そう言われるとうなずくしかない。
天下二分の戦で戦った、日ノ本の名だたる武将たちが勢ぞろいしているのは周知の事実で、それらが慌ただしい動きを見せるとそれに呼応するかのように揺らぎが生じても不思議ではない。
「じゃああまりぞろぞろと行かない方がいいかもしれんな」
「家康はここで待っていろ。案内はひとりでいい、独眼竜か真田かどっちかにしろ。あとは私と毛利で行く」
「待てなぜ我が同行することが前提になっているのだ!」
「私も行こう。怪我人のお守り役は引き受けた」
孫市が名乗り出て、元親に向かってあからさまに挑発するような笑みを浮かべた。
「ぐ・・・」
おまえは行かないのか、とでも言いたげな目に、思わず元親は唾を飲み込む。気まずさから逃げているように思われているのかもしれない。だが何も言いだせなかった。
「毛利、怪我人はついてくるだけでいい。何か異変を解決できそうな案を思いついたら教えてくれ」
頼み込むような口調で若干失礼な発言に、元就はむっとしたが、実際何が起きようと対処できる体調ではない。反論するのも面倒だと投げやりに舌打ちして、どうなろうと知るものかとそっぽむいた。小娘のいい加減な占いなどあてになるものかと思う。
「頼んだ。無理はするなよ。あまり大勢の兵を一気に動かせないのでとりあえず五十人ほど隊を連れて行け。まさか戦になるようなことはないと思うが・・・」
「偵察だからな。オーケー、こっちは決まったぜ」
「某が案内する。ただ遠くの崖の上から見ただけなので、もっと近づくのであればあとは道なりに進むしかないのだが・・・」
「分かっている」
うなずいて、三成が立ち上がる。
「一応こちらも用心しておけよ家康。おまえを狙っている輩はうじゃうじゃいるのだからな。独眼竜、妙な真似をすれば貴様を斬る」
「Ha!信用ねえな」
大げさに肩をすくめて笑ったが、怒る様子もなく政宗は笑った。
「大丈夫だって。俺も島津のじっちゃんも元親も居残り組なんだし。それよりそっち本当に気をつけてよね孫市」
「ふ、誰に向かって物を言っているのやら」
カラスめ、と鼻で笑う孫市の目は優しい。
* * * *
「ちょっと、どうしんだよ!」
背後から声をかけられて振り向くと案の定、大柄で派手な男が駆け寄ってきた。
「ちぃとばかし気になるんでね。やっぱ俺も行くわ」
「気になるって、毛利の兄さんのことかい?」
からかう口調の慶次の顔は意外と真剣なまなざしをしている。ちょっかいを出すのが趣味であるかのように振る舞ってはいるが、彼なりに心配してくれているのかもしれない。割と冷たくあしらっていた元親は少しだけ申し訳なく思って、がりがりと銀色の頭をかきむしった。
「そうじゃなくてよ、ほら」
見上げればどんよりと分厚い雨雲が空を覆っていた。すぐにも降りだしそうだ。
「一度戻ってこいって言った方がいいんじゃねえかと思ってさ。嫌な感じもするしな」
「嫌な感じ?」
何それ、と慶次は首を傾げた。
「分かんねえけど嫌な風が吹きやがる。今すぐここいらに被害を及ぼす気配があるってんならともかく、そうじゃねえならあまり事を急がねえ方がいいだろ。鶴の字の占いなんてありゃ百発百中ってわけじゃねえんだぜ」
「え、そうなの?」
先見の巫女なのに?と疑わしげな慶次に、元親は借りた馬に乗りあげながらぞんざいに手を振った。
「当たり前だ。外れることもあるさ。それに言ってる意味がよく分かんねえ」
分からないものをどうやって警戒しろいうのだ、としごくもっともなことを言う。
「とりあえずあいつら迎えに行ってくる。どうせすぐ追いつくだろ」
家康にも言っておいてくれ、という言葉を残し、馬を走らせた。
「素直じゃないよね」
心配ならそう言えばいいのに。
そもそも初めから自分も行く、と手を挙げれば良かったのだ。慶次がそうしなかったのは、孫市を信頼しているからだ。それに何かあったときここで踏ん張るのもまた自分の役目だと思っている。
「いつまでもカラスじゃないもんね」
迎えに来たとばつの悪そうな顔で告げる元親に、孫市が冷たくカラスめ、という光景が脳裡に浮かんで、慶次はくくく、と笑った。
ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきて、ああ雨雲が耐えられなかったか、と空を見上げる。
遠雷の音が響いた。
馬くらい乗れる、と言い張る元就をあっさり大名駕籠に乗せたのは孫市だった。陸路で中国からやってきたときも駕籠を乗り継いできたのだ、馬など用意できるかと啖呵を切る。せっかく上等の駕籠を用意させたというのに元就はますます機嫌を悪くした様子で、むっつりと黙りこんだまま一言も話さなくなった。忌々しそうに怪我を負った足を何度もさすっている。
我儘な男だ、と呆れながら孫市は苦笑する。
昔から元親は理想が高かった。いわゆる高嶺の花を欲しがる傾向にある。男に対しここまで執着したのは初めてだろうが、いくら気品が高く目を見張るほどの美人であっても性格的に大層難儀な相手である。国を壊滅させ相当の痛手を負ってもなお彼のことを憎みきれない、諦められていないのは、元就の一挙手一投足に揺れる元親の目を見れば分かる。どこまでもカラスでどこまでも優しいやつだ。昔からそうだった。完全に人を裏切れないし恨めない。一度敵にまわれば鬼と化すが、果たして元就相手に鬼になりきれなかった。おそらく騙されて家康を仇だと信じ込んだときも、心のどこかでまだ疑っていたに違いない。それだけ元親という男は、友人や部下といった仲間を決して見捨てたりはしないし心の底から信頼している。それは弱さであり甘さであり、強さでもある。
(私には無理だ)
だから契約の名のもとに私情を封じる術を身につけた。元就からしてみればそれは重責に縛られない自由で滑稽な生き方なのかもしれないが、感情を殺し甘さや弱さを排除しようとするのはとても似ている。完全に排除できずにいるのが自分、できるのが毛利元就という人間なのだろう。
「あの崖を」
と、先頭を行っていた幸村がついと腕を上げた。
「登ればよく見えます」
「分かった。ゆっくり登れよ」
駕籠を担ぐ屈強な兵たちに三成が声をかける。揺れる駕籠の中、崖をよじ登ることになる元就はたまったものではないだろう。
「大丈夫か?」
そっと駕籠の中をのぞきこめば、いささかぐったりと背中を預けている元就は一瞬きついまなざしで孫市を睨み、ふいとそむけた。
「気持ちが悪くなったら言えよ」
笑いを堪えながらそう告げれば、一度だけだんっ、と中から壁を殴る音が聞こえた。
ごろごろと転がる大きな岩に足をとられないよう注意しながら馬を進めていたが、どうしても駕籠が遅れる。先を行く幸村と三成を確認すると孫市は一度馬を下りて、先に駕籠を行かせることにした。
「足元に気をつけろよ。それとなるべく揺らすな」
「はい」
素直にうなずくも、駕籠をかつぐ兵士らは汗を浮かべて四苦八苦している。
ようやくたどり着いた頂上で彼らが見たのは異様な風景だった。
遠く、金ヶ崎と思われる方角一帯に靄がかかっており、空は暗く巨大な穴があいているかのようだ。靄は霧と煙が混ざりあったような色をしていて渦巻くようにゆっくりと動いている。
「何だ、あれは」
掠れた声で誰かが呟いた。
ふと孫市が振り返ると、地面に下ろされた駕籠からぬっと白い手が突き出して中から人が現れる。慌てて手を差し伸べる兵士を押しのけるようにして狩衣姿の元就が降り立った。
「あれを」
と、かの方向を指し示す。
元就は眉間にくっきりと深い皺を刻みながら目を細めた。
「よもやあれが結界とやらか」
「そうかもしれん。だがここからでは何が起こっているのか分からんな」
ぞろぞろとついてきた兵士たちも唖然と遠くの靄と暗い空を眺めている。ただならぬ様子を目の当たりにして、あれは何かの呪だろうか、などと低い声がざわめいた。
「どうしましょう三成殿、もっと近くへ行ってみますか」
「そうだな・・・」
少し考えるそぶりを見せて、三成は元就らを振り返った。
「私と真田はもう少し近くへ行ってくる。毛利、何か感じるか」
「こんなところから何を感じ取れと言うのだ。分かるわけなかろう」
「まあ、それもそうだ。だが一応忠告しておくが石田、怪我人をこれ以上引っ張り回すのはどうかと思うぞ」
どこまで近くへ行く気はしれないが、と付け加えて孫市は腕を組む。
「それに雲行きが怪しくなってきた。雨が来るぞ」
空はいつの間にかどんよりと曇っており、まるであの異常な靄と暗い空がこちらまで寄ってきたかのようだ。風も冷たくなってきている。日が傾くにつれて気温も下がるだろう。
「おまえたちは先に戻っていろ。兵も隊の半分をつける」
「大げさな、とは言わん。そうさせてもらおう」
あっさりとうなずいて、元就の意思を確認することもせず淡々とふたりは話を進めてしまった。
どこまでも愚劣なやつらめ、とは思うものの、雨がくるという孫市の予感は本物のようでじくりと足が痛む。ついていったところで良いことは何もないだろう。そもそも好きでここまで同行したわけでもないのだ。さっさと帰るに限る。
連れてきた兵士らの半分を連れ、三成と幸村は再び崖を降りて金ヶ崎方面へと去って行った。ぽつりと頬が濡れて顔を上げると思っていた以上に雨脚が早かったらしく少しずつ粒が激しくなってくる。
「毛利、乗れ。雨が激しくならないうちにここを降りなければ」
「ふん」
土砂降りになれば駕籠を担いで崖を降りるのは困難になる。かと言って足に傷を負った元就が歩いて降りるのはもっと難しいだろう。孫市は担ぎ手である兵士を交代させると、足腰の最も強い兵を先頭に立てて注意深く崖を降りることにした。
どうにも嫌な気配を感じる。
孫市は油断なく周囲に視線を巡らせた。
何かいる。