毛利元就という男は、「私」と言うものを捨てることで絶大な権力を手にした。少なくとも自分でそう思っているしおそらく周囲の誰もがそう信じているだろう。己の心を凍てつかせ、兵士の生殺与奪の権を握り、ただひたすら中国の安寧と毛利家の繁栄のためだけに尽くしてきた。そこに善も悪もない、嬉しいも悲しいもない、平穏も混乱もない、仲間も孤独もない。それを「空っぽ」と評したものもいた。それでもだ。いつしか痛みを感じることもなく、眠れぬ夜を過ごすことも少なくなり、あるときふと気づいた。
強くなったのだ、と。
一切合財何もかも捨てることで父と兄から『借り受けた』ものを守ることができるのならそうしようと。
それなのにこの体たらくである。
情けない、と元就は心配そうに顔をのぞきこんでくる家臣らを無視したまま唇を噛んだ。強く噛みすぎたのか血の味がする。ぴりと痛むそこを舌で舐めとって、がさついたそれをまた噛んだ。
欲しいと思った男を手にするのと、自国を守ることを同時に行うにはこの方法しかないと思った。どちらかを手にしどちらかを手放す気などさらさらなかった。奪われたり裏切られるのはもうごめんだ。それならば、自分が奪い、そして裏切り行為を働くことで阻止できる。要はそれが露見しなければ良い話で、だが一方で四国壊滅の裏工作を最後まで隠し通せるかというと実は五分だと考えてもいた。一応は冷静に頭が働いていたのだろう。家康からも大谷とほぼ同時に同盟の要請がきたがその選択肢ははじめからなかった。
(当たり前だ。ふたりがこれ幸いと笑い合うのを見物していろとでも言うのか?)
再びじわじわと胸のうちに怒りが燃え上がる。紛れもない、これは嫉妬だ。
何故手に入らぬ。何故言うことを聞かぬ。
愛してる、そばいにてくれ、あんたは奇麗だな。
そんな美辞麗句を並べたて、別に抱いて楽しくもないだろう固い体に触れるくせに肝心なものは何一つ寄こさないと言う。それが愛か?欲しいというのならば元親も与えるべきではないのか?
元就は、元親の全てが欲しいと思った。愛されているのならその証が欲しい。
元親が、ではおまえは全てをくれるのか、と聞いたから、それはできないと答えた。
元就にとっての「全て」とは言うまでもなく中国と、そして毛利の家である。それ以外何もない。それをやるわけにはいかないだろう。
だが元就が欲しいのは「元親」という存在だ。四国やその部下や領地領民といったものは所詮は付属物である。手に入るなら喜んで引き受けるが、別に侵略してまで欲しいとまでは思わない。厄介なお荷物になる可能性の方が高い。
けれど元親は「愛してる」などと言ったのだから、それらを差し出してでも愛してる対象を手に入れたいと思うだろう、というのが元就の見解だった。
それがどうだ、まるで話がかみ合わないではないか。
「元就様・・・」
低く呻いた元就に、いよいよ不安になったのか部下が遠慮がちに声をかけてきた。
「傷がまだ痛むのでは」
「うるさい」
「しかし・・・」
かの天下人に対して殴りかかろうとした主君を、怖々と、だが決して憎悪ではない目で見つめる。
「御身お大事になさいませ」
そう言って、さきほどからちらちらと部屋の中をのぞこうとしている徳川方の世話人に向き直る。
「落ち着かれたご様子ですので、夕餉の支度を願います」
「は。ただいますぐに」
暖かいお茶と馳走を口にすれば、少しは気が晴れるだろう。
落ちついたなら、このまま何事もなくすぐにでも安芸へ帰りたい。
元就の家臣は口には出さず、ただ強くそう願うばかりだった。
結局、そのまま元就は部屋からほとんど出ることもなく元親や家康の前に顔を出すこともなかった。家康の依頼を蹴ったのだからもうここにいる必要はない。元就も、その家臣も、早く中国に戻りたかった。それを迷う理由はただひとつだ。
もしこのまま、何も解決せず国へ帰れば。もう二度と元親と会うことがないかもしれない。当主の座は嫡男に譲り、戦場を駆けることもほとんどなくなるだろう。そうであれば、元親が中国へ攻め入らない限り顔を合わせることがなくなる。
「いいのか?」
そう聞くのは孫市だ。
誰も立ち入ろうとしない元就の部屋を訪れては、無言で睨んでくる元就を平然とかわしそう尋ねる。
いいのか、このままで。何も解決せず、ただ愛していた事実を過去のものとしたままで。
「言っておくが私はおまえたちがどうなろうとどうでもいい。関係ないからな。だが姫が気にしている」
「気にしている?子供じみた手紙をよこしたぞあの娘は。くだらぬ」
何が”欲しいと我儘を言う子供”だ。それは本来元親へ告げる言葉ではないか。
欲しいと先に手を伸ばしてきたのはあの男だ。それに対し見返りを求めて何が悪い?自分は奪われるだけか?
どうせ全て筒抜けなのだろう、ふたりのことを知ってもなお顔色ひとつ変えない女に、そのようなことをぶつぶつ呟き文句を言った。近すぎず、かといって遠すぎない孫市との距離感は意外と悪くない。敵でも味方でもなく、外でも内でもない。敵にならなければ彼女は決して裏切らないし、干渉してくることもない。
「先ほど徳川から伝言を預かってきた。すまなかった、だそうだ」
さらりと告げて元就の様子をうかがうように僅かに身を乗り出した。豊満な胸がのぞく。ああ元親はこういうのが好みなのだろうな、と何となく思った。すぐ身近に、こんなに面倒のない女がいるというのに何故あの男が自分を構いたがるのか全く理解できなかった。だがそれももう過去の話だろう。このまま拒絶し、そして元親が彼の存在そのものを与えないと言うのならば、関係は決裂だ。当たり前だ。口ばかり欲望ばかりで愛だの何だのと言っても信用できるはずがない。
「少し話を聞いたが、徳川のやつ、なかなか阿呆なことをおまえに言ったようだな。元親に優しくしてやれだのと。全くカラスは天下人になってもカラスのままか」
先が思いやられる、とため息をつく。
「これは私の個人的な分析だが」
「分析」
「ああ。なかなかおもしろい材料だ」
勝手に材料扱いされて、元就は不快そうに彼女を睨んだ。
孫市はくすりと笑うと腕を組んで対峙するように顔を上げる。
「おまえと元親は見ている世界が違うのではないか?」
「世界だと?」
「そうだ。見ている世界が違うから、物の考え方も違う。どちらが良い悪いという話ではない。立っている土そのものが違う、と言っている」
生まれも育ちも違うのだから、当然見ている世界も違うだろう。何を当たり前のことを、と元就は眉間にしわを刻んだ。
「分からないか。では少し言葉を変えよう。つまり、おまえと元親は同じ言葉を話し、同じ感情を抱いているにも関わらず物事の価値観や基準が違うからずれている」
「なに?」
意味不明だが、興味のある話だ。
少しだけ機嫌を取り戻して足を崩した。ふたりの会話を盗み聞きするような家臣ではないが、絶妙のタイミングで声をかけて入ると熱い茶と菓子を差し入れてくる。孫市は遠慮なく羊羹を楊枝でぶすりと突き刺した。
「一度心行くまで話をしてみてはどうだ?腐れ縁とも言える間柄だと言うのにきちんと対座して話をしたことはないのではないか?思っていることを正直に伝えたことがこれまであったか?」
否、としか答えようがなかった。
戦場で、褥の中で、思いの内を全て伝えることなどできるはずもない。
言葉にしなくても分かったような顔をして、理解したように語る元親をどれだけ呆れ憎んだだろう。
寂しいやつだ、おまえには何もない、などと言いながら、その言葉の裏にあるのは「だから俺がそばにいてやる」だ。
冗談ではない。元就にしてみれば、そばにいさせてやる、が正しい。
ああ、なるほどずれている。これでは噛みあうはずもないだろう。
「元親はおまえを殺せなかった。それが全てだと私は思うがな」
「だから感謝しろと?受け入れろと?なぜ我だけが与えなければならぬ。なぜ我が黙って奪われなければならぬのだ。貴様はあの男の味方なのだろう。それともどうにかしてくれとでも泣きつかれたか」
愚劣極まりない、と吐き捨てる。
「味方?私が?」
不思議そうに首を傾げて、孫市が空になった皿を押し出した。
「私は我らの味方でしかない。敵も味方も契約次第だ。だからかの戦では徳川につきおまえたちとは敵対したが、戦が終わったのならそこに敵も味方もない」
「個人の話をしている。雑賀衆のことなど誰も言っていない」
「個人とは何だ」
個人とは。
捨てただろう、私という個人を。
同じだ、と改めて元就は目の前の女性を見つめた。
個は全、全は個。
孫市がそっと微笑む。
「おまえは私だったかもしれないな」
お市の姿がない、と騒ぎが起きたのは、元就と孫市が話をしている真っ最中だった。そろそろ皆自国に戻る支度をしようか、と酒の残る重い体をおして、それでも何だか落ち着かずにそれぞれ好き勝手に過ごしているところにもたらされた報告に、家康はじめその場にいた武将たちは怪訝な表情を浮かべた。
「お市殿とはあのお市殿でござるか」
「そういやあのお姫さんどうなったんだと思ってたが・・・ここにいたとはな」
「ああ、わしが引き取ることにした。放ってはおけんし、かの信長公の妹君・・・いや今はそんなことはいいか。それより姿が見えないとはどういうことだ」
冷や汗を浮かべる家臣に落ち着くように言いながら尋ねる。
「は、それが、最後に見かけたのがまだ日が昇りきらぬ暗いうちでして。明け方念のために侍女が様子を見にいったところ部屋はもぬけの殻。太陽の昇る時刻には動けなくなりますゆえ・・・」
どうしたものかと。
市は黄泉から蘇った、と心から信じている者がどれだけいるだろう。だが彼女が日の光を極端に嫌い弱体化するのは周知の事実で、すでに太陽が空高く昇ったこの時間になっても部屋にいないというのは非常事態とも言える。
「探しに行こう」
慌てて立ち上がる家康を、左右から幸村と政宗が押しとどめる。
「おいおいあんた自ら動いてどうするんだよ」
「そうでござる。仮にも天下人となったのであれば城内にて指示をするのがつとめであろう」
「Hey、真田幸村。あんたまともなこと言えるんだな」
「どういう意味か分からぬが」
むっとしたように幸村が唇を尖らせた。多少成長したとはいえまだ幼い表情を見せることの多い宿敵に、政宗がくくっと笑う。
「暗がり探せばいいんだろ。ちょうど遠乗りにでも出かけようと思ってたところだ、ついでにその辺見てきてやるよ」
「某も行こう」
仲がいいのか悪いのか。
ふたりのやりとりを微笑ましく見物していた家康は、このふたりなら間違いないだろう、とうなずいた。
「ああ。人探しは家臣たちによくよく頼むことにするからおまえたちは好きに遊んできていいぞ」
「おまえは親父か」
冷静な突っ込みをしてから、ふたりは立ち上がった。
「ん、今度は何だろね。さっき家康の部下が走ってあっち行っちゃったけど」
昼間から酒を食らっていた慶次と元親はのんびりと縁側に座って日向ぼっこをしていた。何だか体を動かす気分になれないのは、昨夜の酒が残っているせいなのか何なのか。どうもすっきりしない、という顔をする元親に慶次は笑顔を向けた。
「それより元親、帰るときは毛利の兄さんも一緒に船に乗るのかい?」
「はあ?・・・そんな状況かよ」
呆れて重い息を吐く。
帰る方向は同じだ。毛利は海路を使わず陸をのんびり来たようだったが、おそらく元親の操る船とはちあわせしないためだろう。そうまでして嫌われたのだろうかと思うと胸が痛い。殺そうとした相手に嫌われるも何もないのだけれど。
だが命をとられるのと同じくらい手痛い傷を負ったのはこちらも同じことなのだ。
もう済んでしまったことを引きずっていても仕方ないのは分かっている。元就は決して謝罪などしないだろうし、そうして欲しくもない。彼のやったことは周囲から見れば非道ではあるが国主として間違ってもいないのだ。隣国を敵にまわさないために裏工作をして味方に引き入れる。国をほったらかしにしていた国主が悪い。義理や人情で国は動かせないし戦は終わらないのだ。
だが蓋を開けてみれば元就のしたことは私情を挟んでいたことになる。確かに国ため、家のためというのは本当だろう。だが彼は殺されると思った瞬間満足したように微笑んだのだ。
「きっと分かってたんだろうなあ・・・」
「何が?」
「俺が、あいつが死んだってあいつのこと忘れたりできねえってことをさ」
「おお。何それ惚気?」
にやにや笑いながら慶次は手を叩いて喜んだ。
当事者同士はこんなにも、殺伐と悩みあぐねていると言うのにこの呑気さは何だ。
だがそういうものなのだろう。ぐだぐだ悩んでいるのは本人たちだけで、第三者から見れば全く馬鹿馬鹿しい痴話喧嘩に見えているのかもしれない。
「いいよなあ、おまえは平和そうで」
「なんだよ、元親が一番平和そうだよ」
「どこがだよ!おまえ何見てるんだ」
「何って・・・」
首を傾げると、頭のてっぺんで結わえた茶色の髪が左右に揺れた。
「おまえを寄こせ、いやおまえが寄こせ、て言い合ってる馬鹿ふたり」
きっぱりと断言され、元親はがっくりと項垂れた。
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