のそりと姿を現した西海の鬼の表情は、何か酸っぱいものを食べたような、妙な顔だった。機嫌が悪いというふうでもない、どちらかと言えばからくりの設計図に頭を悩ましているような、そんな顔だ。
「仲直りしたのかい?鬼の兄さん」
呑気に煎餅を頬張りながら聞いてくる慶次に、元親は嘆息するしかなかった。
「何だよ仲直りって。殺し合いだぞ」
「でもさ、生きてるなら仲直りだってできるよ。死んじゃったら殴り合いもできないんだ」
そう呟く彼の目は、いつも明るい色をたたえているのに何故か切なげだった。ああ、こいつもきっと大事なものを失って、苦しんできたのだな、と初めて元親は思う。戦の世だ、奪い、奪われてきたのは自分だけではないと分かっているはずなのに。
「さっき家康が毛利さんのところ行ったけど何だろうね、頼みたいことって」
「さあな」
おおよその見当はつくけどな、と声に出さずに口の中だけで呟いて、差し出された茶を手に取った。酒がいい、とは思ったものの、もうすぐ夕餉だ。そう待たずに堪能できるだろう。
呼びつけるでもなく、わざわざ与えた部屋へ出向いてきた家康を追い帰すわけにもいかず、元就は不機嫌さを隠そうともせず対面に座った。いつも無表情のその顔はどこかすっきりしたような、憑き物が落ちたような表情をしていて、おや珍しいと家康は首を傾げる。不機嫌そうだ、と思ったのも間違いなのだろうか。
「話とはなんぞ」
「ああ。実は頼みがある。毛利殿は近々家督を譲られると先ほども聞いたが、もし良ければ、わしにその知略を貸してもらえんだろうか」
参謀役が足りないのだ、とあけすけに家康は笑った。
「これから大事なのは戦のやり方ではない、政だ。あなたの政の腕は評判だし、中国も幾度となく戦火に巻き込まれながらも民たちは反乱を起こすことなく生活している」
そう言って背筋を伸ばす。
「わしがあの戦を制したとき後、主だった国々に使者を送って状況を見てきた。中国の民はあなたを非常に慕っているのだな。こんなことを言うのは無礼だと思われるだろうが、正直意外だったのだ」
兵を捨て駒と呼び、冷酷非情な策を使い、恐れられながらも小さな国人領主から中国の覇者と呼ばれるまでになった。人々は畏怖を抱き彼を謀神、稀代の智将と呼ぶ。国の民は彼をまるで生きる神のように崇拝するのだ。
「あなたの力を借りたい」
どうか、頼む。
天下人が、ためらいもなく敗将に頭を下げる。知らない者が見れば何事かと思うだろう。
元就は、どうか、とまっすぐに自分を見つめてくる青年をじっと見返した。
同時に胸の中で暗い、澱んだ炎がちらつくのを感じる。
ああ、殺してしまいたい!
「毛利殿?」
一瞬の殺気を感じたのだろうか、家康がはっと身構えた。
だがそれもすぐに消え失せて、ただ倦怠感に似た空気が周囲を支配する。
「まるで、見下されているようだ」
「・・・え?」
「なにもかもを手にしたつもりか。国も、人心も、その絆とやらで」
あの男も。手にしたつもりかと淡々と言い捨てた。
「軍師が必要なら黒田でも良かろう。大谷もまだ生きておろう。我は貴様に力を貸すつもりはない」
話はしまいだと、鋭い目で出て行けと促す。
「やはり駄目か。なあ毛利殿。あなたはわしを嫌いなのだろう。だがわし自身を知って嫌っているのか。あなたが見ているのはわしではなく、元親なのだろう?」
ずばりと尋ねると、智将は目を瞬いて、呆気にとられたような顔をした。図星だ。彼は徳川家康という男の中身を嫌っているのではない。そこまで興味がないのだ。それも少し寂しい話だが、と家康は心の中だけで苦笑して、真面目な口調で言い募る。
「あなたは元親に近づく者全てを憎悪するのか?自由を愛する海賊を束縛できると考えているのか?あなたほどの人が、本気でそんなことを信じているわけはないだろう」
「う、うるさい黙れ!」
かっとして懐から取り出した扇子をつきつけた。白い頬は怒りのためか紅潮して、常から崩さなかった冷静さを失っているようだった。
「いや、あなたの執着を詰るつもりも責めるつもりもない。だが元親の友人として頼む。彼のことを考えてやってくれないか。そしてもう少し優しくしてほしい」
もしこの場に孫市か、あるいは政宗あたりがいたら慌てて家康を止めただろう。だがあいにくこの場にはふたりしかおらず、家康は元就の逆鱗に触れたことに気づかなかった。ぴしりと空気が凍りつく。息の詰まるような沈黙が流れ、ようやくまずいことを言ってしまったのかと家康が知った時には手遅れだった。
ばたばたと廊下を走る音や喧騒が起こり、元親と慶次は何事かと部屋から身を乗り出して様子をうかがった。
「なになに、喧嘩でも始まったかい?」
「天下人の城でかあ?呑気なもんだな」
「呑気なのはおまえだ、カラスめが」
「うおっ?」
騒ぎを聞きつけてやってきた孫市が元親を睨む。
「毛利と徳川の間で何かあったらしい」
「なんだって?」
ぎょっとして立ち上がる。向こうから三成も姿を現して、呆れたように孫市を見た。
「乱闘でもやっているのか?」
「ちょっと見てくる」
駆けだした慶次から一歩遅れて元親たちもそれについていった。
向かった先は家臣たちが走り去る方向、そこは毛利にあてがわれている部屋だ。
「放せ貴様ら!殺されたいのか!」
「お、落ち着かれよ毛利殿!」
見れば数人の家臣たちにはがいじめにされじたばたと暴れている元就と、おろおろしている家康がいた。ふたりが話し合いをしているのは知っていたが何がどうしてこうなったのか、理由の分からぬ者たちが次々と様子を見に来るものだからますます騒ぎが大きくなっていく。
「ま、待て、手荒なことをしてはいけない」
もがく元就を抑えつけようとする家臣たちに慌てて手を振って、唖然としてる元親たちをすがるように見た。
「おいどうしたんだ」
「いや、その」
ここでする話でもなければ、家康自身なぜこんなに元就を怒らせてしまったのかがよく分からず、ただ口ごもるばかりだ。
「・・・徳川、おまえがいては毛利が落ち着かぬだろう。先に行け」
孫市が家康に向かってぞんざいな仕草で手を振る。三成は、困ったような顔をしながら立ち去る家康についていくかそれともこの場にとどまるべきか迷ったが、結局家康の後を追って行った。その背中が、なんだか寂しそうだったので。
結局、家康の姿が見えなくなった後、元就は騒ぐのをやめてぺたりと座りこんでしまった。放心したような顔の彼は騒いで泣きつかれた子供のようにも見えて、徳川の家臣たちも扱いに困ったように手をはなす。
「おまえたち、そばにいろ」
おそるおそる事態を見守っていた毛利家の家臣たちに向かって孫市が言い、彼から目を離さないように念をおしてから部屋を出ることにする。
「孫市、話聞かなくて良かったのかい?」
「話せる様子ではないだろう。聞くなら徳川だ」
「ま、それもそうだね」
珍しいものを見た、と言った様子の慶次に緊迫感はない。それどころか何がそんなに楽しいのかニコニコしている。元親は黙り込んだまま、一度だけ振り向いて毛利の部屋を見つめた。
家康はおそらく、元就にこれからの国づくりに協力してくれないかと言ったようなことを頼んだのだろう。それをあっさり受け入れられたとも思わない。だがその話からなぜここまで騒ぎになったのかさっぱり分からなかった。
「まああいつの怒りと笑いのツボは昔から分かり辛ェからな」
年寄りのように気難しい、とため息をつく。そうやってこれまでも振りまわされてきた。けれど、疲れることも多かったがそんな彼の心情をふと理解できたときは、難解な問題を解決したときの達成感にも似ているのだった。
「つくづく面倒なやつらだ」
ぼそりと呟く孫市に、ん、と反応を返す。
「ああ、確かにあいつはめんどくせぇ男だよ」
「阿呆、私はやつら、と言った」
「何だよ俺も入ってるのか」
「入っているというよりおまえたちふたりのことを言っているのだが」
じろりと睨まれると何も言い返せずむっと黙りこむ。それを横から慶次がのぞきこんで、指をさして笑った。
「愛されてるねえ」
「全然嬉しくねえ!」
「そうかい?だってすごいじゃないか。憎まれても殺されても構わない、側にいたいから非道な真似しちゃうなんて。誰にでもできることじゃないよ。恋の域を超えてるね。俺ちょっと感動。やったことはひどいし許せないけど人間らしいって言えば人間らしいよ。俺あの人って人形みたいに感情ない冷たい人だと思ってた」
頭の後ろで手を組んで言ってのけてから、慶次は、あ、と後ろを振り返った。
「もしかして家康のやつ、毛利さんに元親をいじめるなよーとか言っちゃったんじゃない?地雷踏んじゃったってやつ?」
「おまえなんでそんな訳わからねえ感じに頭が回るんだよ?」
呆れて返せば、不思議そうに首を傾げて慶次は少しだけ表情を改めた。
「なんで分かんないの?」
真面目に問われて言葉に詰まる。
なぜ、自分と元就との間にあったことなどほとんど知らないはずの慶次にそんなことを言われなければならないのか。
三人はそろって先ほど皆が集まっていた広間へ向かった。途中すれ違った家臣に、家康たちがそこにいると聞いたからだ。
「鬼の兄さんは恵まれてるよね」
そうぽつりと言う慶次を無言で見返したが、彼はこれ以上は何も言わないとばかりにそっぽ向いてしまった。
『毛利さんはひどいです』
などと言う突拍子もない無礼な一文から始まる手紙を拾い上げて、元就は嘆息した。鶴姫から届いた手紙はすぐに捨ててしまったはずだが回収される前に何故かもう一度手に取ってしまった。最初に一度読み終えた後握りつぶしてしまったため皺だらけだがびりびりに破かなかっただけまだ自分は冷静だったらしい。
ひどいです、などと言いながらも彼女からの手紙の内容には元就の身をそれとなく案じる文がえらく遠まわしかつ仰々しく綴られていた。いわく、瀬戸海を守るためには中国四国とそして何より自分の力が必要なのだから、仲直りしないと成敗しますよ、らしい。それだけなら何とも思わないが、本題は元就がしでかした四国壊滅の策を容赦なく責め立てることだった。ただ単にひどいです、で終わっていればよいのだが、どうやら彼女は孫市と通じかつ占いとやらで元親との因縁を知ってしまったらしい。
そんなことでは嫌われちゃいます、そんなの悲しいです、などと。
年端もいかない少女に同情されてしまい呆れるやら腹が立つやら。
孫市は先に三成と同盟を結んだため西軍へ、鶴姫は騙されたと立腹したあげく宵闇の羽とやらを追って東軍へついた。それぞれ仕方ない、で割り切れるあたり、女とはかくも強い生き物だとしみじみ思う。それに比べて自分はどうか。仕方ない、で割り切って家康と手を組んだ元親と戦えるかと問われれば、否と答えるしかない。どんな手を使ってでもふたりを引き裂いただろう。
家康を謀殺することさえ考えたが、東軍の総大将であり何十万もの兵力を有する家康は簡単に殺せない。また三成は復讐を果たさない限り戦を止めることはしないだろう。かわせぬ戦ならより優位に運びながら自分の目的も果たさなくてはならない。
要するに、元就にとって家康は最大の邪魔ものだった。天下泰平だとか絆がどうとか、全く興味はない。ただ元就自身のもの(という認識がある元親)を掻っ攫うため、さも親切そうに手を差し出すだろう様が気に入らなかったのだ。
そんな男に、政に手を貸せ、元親に優しくしてやれなどと言われて冷静でいられるわけがない。誰にも何も通じていない虚しさと腹立たしさに苛まれどうしようもなく悔しかった。どこで間違えたのか、それすら考える余裕がない。
従者が心配そうに見守るのを無視して、元就は壁に背を預けると膝を抱えた。わめきたいのか泣きたいのか、あらゆる感情がうごめいて頭の中が沸騰しそうだった。投げ捨てられた手紙をちらりと見る。
『欲しい欲しいって我儘を言う子供じゃないんですから!』
勢いのままに書いたのだろう文字がのたうっていて、元就は耐えきれずに目を閉じた。
「弱ったな。すっかり毛利殿を怒らせてしまった」
「おまえ阿呆だろ」
広間に残っていた幸村と政宗、島津を交え、再び毛利をのぞく全員が集まる。ぼやく家康に容赦ない突っ込みが左右から同時に入った。三成と政宗である。
「あのな、前から言おう言おうと思ってたんだがよ」
「うん、何だ独眼竜。なんでも言ってくれ」
困惑しながらもさわやかに胸を張る家康に、政宗はずいっと詰めよった。
「おまえが人がいいのは分かる。悪気がないのもよく分かる。けどたまにすげぇイラつくんだよ。何だろうなこれ」
なあ、と横目で同意を求められて、幸村はどう返答していいものかと目を泳がせた。応、と言うのは何だか悪いし、だが否と言えるほど家康に傾倒しているわけでもない、むしろ敵対していた側である。政宗の言いたいことは何となく分かるが、曖昧すぎてはっきりと正体の掴めないもどかしさに、ううむと唸るしかなかった。
「毛利がイラつくのはまた違う理由なのかもしれねえがな」
そう結んで、茶をすすった。
しばらく彼を見ていたが続きを話す様子もないので、家康は頭をかいて首を振る。
「困ったな。毛利殿とはこれからうまくやって行きたいと思っているのだが」
「ううむ、難しいのう。特にあん人は難しか」
隣りに座る慶次と杯を酌み交わしながら島津がぼやく。
廊下から声がかかって、そのまま夕餉の席になった。豪華すぎるほどではないが旨い食事と酒のおかげで場の雰囲気も何となく柔らかくなり、ほっとする。元就をひとり部屋に残しているのを気にかける者もいたが、呼んだところで彼はこないだろう。いちいち気を使わねばならないほど彼と友好的な者はこの中にはいないのもまた事実だ。同じ西軍に身を置いていた三成らも元親も、元就を友と呼ぶのは違うだろう。それらもひっくるめて島津の言うように、彼と、彼をとりまく関係は全てが何だか複雑で難しい。すっかり絡まってしまった紐を前に途方に暮れているようなそんな感覚だ。
笑みを浮かべてはいるが冴えない表情の家康に、三成はどう声をかけようか迷っていた。
生死を賭けた一騎打ちに敗北した今、秀吉への無念は消えはしないが家康への憎悪は何故かさっぱり消えていた。自分を恨み続けてもいい、だからそばで助けてくれないかと馬鹿正直に言うこの男に毒気を抜かれてしまったのかもしれない。
皆が自分を置いていくとただ寂しがって泣きわめく子供のような自分と、孤独でもいい、ただ前へ進むのだと誓った彼とは大きな隔たりがあって、やたら絆、絆と主張する家康が本当は誰よりも孤独なのだと気づいたのが一騎打ちで敗れた瞬間だった。自分を打ち倒した瞬間拳を握りしめた家康が泣いているように見えたが、はっきりとは確認できなかった。もし涙を流していたのだとすれば、それが懺悔なのかこれで戦が終わるという安堵感からなのか。今となってはそれを聞く機会さえなかった。
だから三成には何となく政宗の言うことが理解できた。
要するに家康を慕う者も憎む者も、徳川家康という男は非の打ち所のない完璧な男だと思い込んでいるのだ。だからこそ、自分の中にある弱さや狡さを見せつけられているようで腹立たしく、人望があり弱さもないように見える家康を見ていると揺さぶられるのだろう。
妬みや嫉妬を超えたはるかに巨大な壁を前に、その壁が自分と同じ高さまで目線を合わせて驕ろうとしないから余計腹立たしく思うのだ。いっそ、頭を垂れよと命令するような、信長や秀吉のような人間であればここまで事態は複雑にならない。従属するか反発するかのどちらかを選べば良いのだ。
だが家康はそれをよしとしない。従属しなくてもいい、反発してもいい、けれど助け合おう、と、そう手を差し伸べる姿は眩しくて。素直な人間ならばただ素晴らしい人だと思うだろうが、軍を指揮し国を背負う立場の人間はそう真正直にはとらえない。
何もかも分かったような顔をしやがって、と。そう苛々させられるのだ。
(あ、そうか。毛利もそうなのか)
元親に近寄るから気に入らない。
それに加え、にこにこ笑いながら完璧なところにあるように振る舞うのが気に入らない、のだろう。元就は家康の心の中にある様々な闇を知らないから。あの毛利元就が、だ。つまりは、家康の演技に騙されていることになる。
刑部がいればな、と三成はふと思った。
彼ならば、自分のことも、毛利のことも、家康のことも、何でも話せるのに。気を使うことなく、苛立つことなく、唯一安心して心の内を打ち明けることのできる数少ない盟友だ。家康に負けてしまった、悔しいと泣きじゃくる三成をただ静かに抱きしめたのも大谷だった。彼はもう、何も言わなかった。
彼は今療養のため、城から少し離れた屋敷で暮らしている。いつでも会えるしいつでも何でも話せる。家康がそう手配してくれた。だから寂しくはないが、これまで常にそばにいた存在が隣りにいないだけで大きな虚無感がある。言うなれば自分の手足を一本なくしたような、そんな気分だ。
「悪いな」
ぽつりと元親が呟いた。
目を上げると、同じようにぽかんとして友人を見つめる家康の顔がそこにある。
「元親?」
「いや。何か、巻き込んじまってさ。おまえは何も悪くないのにな」
「いや・・・わしに非があったから毛利殿は怒ったのだろう。おまえのこととはまた別だよ」
首を振って元親が手に持っている空の盃に酒を満たす。
「でもやっぱり俺のせいなんだよ。はっきりしねえから。俺さ、たまにあいつのこと怖くなるんだよ。俺は命も四国も俺という存在そのものをあいつにはあげられねえ。でもあいつは当然のようにそれをよこせって言う。でもそれに対して本気で怒れない自分がいるんだ」
おかしいよな、と目を伏せる様はとても鬼とは言えない、ひとりのただの男だった。