不可思議愛憎劇 1






 家康は、広間に集まったそうそうたる顔触れを一度見回して、うなずいた。自分を見る顔はどれも複雑な色をしていて、互いの、さてどうしたものかという心境がありありと分かる。ほとんどの男たちが、戦で負けたからとしおらしく頭を下げるような者たちではないことは家康も承知している。だが服従の型をとらなくても、こうして集まってくれただけでもありがたいと思っていた。心中何を思っているかは知れないが、こうして太平の世をともに導いていこうと手を差し伸べるためには必要なことだと認識している。天下人となったあかつきにはこれまで師のように仰いで来た武将やずっと年上の、人生経験豊かな者たちに対して命を下さなければならない。それでも家康は独裁者ではありたくないと思っている。たとえ頭ごなしに考えをおしつけたところで、それを不満に思い再び乱世の幕が上がってしまっては意味がない。
 上座に家康が座り、その後ろに三成が所在なさげに少しうつむいて座っていた。
 家康から向かって左側に大阪を基準として西側を束ねるものたちが、右側に東側の武将たちがおのおのくつろいでいる。大谷は療養中のためこの場にはいない。
 かしこまっている者はほとんどおらず、家康をはじめ皆がどこかしら怪我をおしての参加である。戦で負った名誉の負傷だとは言え重傷に近いものもいるが、それを指摘することはなかった。それは侮辱だ。中には自分が傷つけたものもあるだろう。
 天下分け目の戦は最終的に総大将同士の一騎打ちで勝敗が決まった。
 家康は全ての業と罪を背負ってでも天下太平の世をつくることを宣言し。
 三成は家康への恨みを、慟哭をぶつけた。
 未来を見るものと過去に捕らわれるものとの戦いは、もしかすると初めから結果が目に見えていたのかもしれない、と誰かが言った。
 家康に敗れ地面に膝をついた三成は、しばらく放心状態のままだった。ただ流れる血の涙が痛々しく、無意識のうちに彼の細い体を抱きしめた家康を誰も責めなかった。
 もういいんだ、と。
 おまえの憎しみも、孤独も、秀吉を殺した罪も、全て背負うと。
 そう告げる家康に、三成はもう刃を向けることはなかった。
 西軍は敗れ、おのおのが自分の国へ戻った。まずは戦で疲弊した国を立て直し、様々な厄介事を片付けなければならない。大将が勝っても負けても民百姓には明日の生活があり、それが大きく変わることはない。家康が真っ先に行ったのは、どの国も戦をおこさないよう触れを出すことだった。特に東軍に敗北した西側諸国ではこの機に乗じて混乱を起こそうとする少数勢力がうごめいている。そこから火種が広がり戦火があちらこちらで勃発することのないよう、よくよく治めるように、というのが、天下人として最初の命だった。そうして、あの戦から四ヶ月あまりが過ぎたころ、ようやく少し落ち着いた頃合いだろうと召集をかけたのだった。
「皆それぞれの立場があるだろう。わしは戦のない平和な日ノ本のために戦乱を引き起こした。その責任はきちんととる。だから皆も協力してほしい。頼む」
 そういって少し頭を下げる。
 ちらりと目を上げると、仏頂面だが不満ではない、そんな顔をした面々が並んでいた。左側の、もっとも家康に近い席に座る毛利元就が音もなく手を伸ばして茶碗を両掌で包み込む。毒見をさせろと言ってくるかとわずかに身構えたが、意外にも元就は無言のままそれを啜った。ほっとして頬の筋肉を緩めると、そんな空気を感じたのか切れ長の目でじろりと睨まれる。
「あー、それでだな。皆はこれからどうするのか聞きたい」
「どうするってなんだよ。今まで通り国を治めるに決まってるだろ」
 どっかりとあぐらをかいた伊達政宗がふんと鼻を鳴らして言い放つ。彼は、隙あらば天下を狙っている。それが家康の失政を望んでいるというわけではなく、単に気に入らないことが起これば牙をむくぞと、そう告げている。だがその実直さが好ましいと家康は思っている。ただ命令に従う者ばかりでは政は立ち行かない。家康自身、誤った判断をすることもあるだろう。そんなとき諫めてくれる人間が必要だ。政宗がそこまで考えているかは分からないが、油断をするなと真っ向から言ってくる彼を家康は嫌いではない。
「いやそれは分かっているが、この中にも何人か、これまでと立場が替わる者がいるだろう?」
 言ってちらりと左を見た。
「毛利殿は家督をご嫡男に譲られると聞いたが」
「そのつもりだ」
「隠居すんのか」
 つまらなさそうに膝の上に肘を置いて頬杖をつきながら政宗が声を上げる。小十郎がいればたしなめるところだが、あいにく従者という立場を崩さない彼はこの場にはいなかった。
「さて。すぐに隠遁というわけにはいくまいが、いつまでも頼られても困るのでな」
「そうか。だがあなたが作り上げた中国だ。きっと大丈夫だろう」
「世辞はいらぬ」
 冷ややかに切り捨てられて、家康は困ったように頭をかいた。どうしてもこの男は苦手だ。
「鬼島津殿も?」
「そうじゃ。これからは若いもんの時代よ。わしは悠々自適な隠居生活を堪能するばい。がははは」
 盛大に笑って、ひとり大きな杯で酒を飲み干す。
「真田は?」
 このような場が苦手なのだろう、そわそわと落ち着きない虎若子に話をふれば、彼は慌てて背筋を伸ばした。
「某は、お館様が完全に回復されるまで武田を守って行くつもりでござる」
 一瞬だけ、おそらく家康にしか分からないだろう鋭い目でいつものようにおおらかな宣言をした。まるで虎の後継者は譲らない、と言わんばかりの気迫につい押される。ああそんなつもりはないのだ、と言っても、彼には彼なりの矜持があるのだろう。いつか互いの本気をかけて、一戦する可能性が高い。そこには天下がどうの、日ノ本がどうのという大義名分抜きに、おそらくひとりの武将としての熱い戦いが待っている。それを避けるつもりもなだめるつもりも家康にはない。拳を交えよと言うのならそうしよう。それもまた絆だろう。言葉で交わす約束があれば、傷つけあうことで初めて通じるものもある。そこまで否定するほど野暮ではない。
「元親は・・・」
「ん、ああ」
 ぼんやりしていたのか、長曾我部元親が茶碗に落としていた目を上げて面倒くさそうに頭をがしがしとかいた。
「しばらくは四国で仕事かな。でもやっぱり自由気ままに海に出てえからなあ。俺もそのうち信親に跡目譲ることになるだろうよ」
「いいねえ、風の吹くまま気の向くまま。旅に出るときは俺も誘ってくれよ」
「そんなこと言っていいのか慶次」
 苦笑すると、自分はここでいいと末席に座っていた慶次が笑いながらひらひらと手を振った。
「平気平気。ちゃんとたまに家にも帰るし、謙信に何かあったらすっとんで行くよ。風来坊の名は伊達じゃないぜ、なーんて」
「気楽なもんだぜ」
 毒づく政宗だったが、少しうらやましそうだった。若い彼はこれから国を背負っていく身だ。それを誇りに思う反面、何にも縛られない自由な慶次をほんの少しうらやんでいるのかもしれない。
「なあ、鬼島津殿。もし良かったらわしの元で、剣術指南役をやってくれないか」
「ほお。わしにまだ働け言うとね?」
「いやあ。そのまま隠居させてしまうのはもったいない」
 もし良ければぜひ、と言う家康に、島津はまんざらでもなさそうに白いひげを撫でた。隠居うんぬんとは言え、大人しくしているつもりはないらしい。新時代を若者に委ねるとは言え、まだできることは大いにあるだろう。


 一同が少しなごんだところで、家康は再び緊張を取り戻したかのように咳払いをして、今度は元就に話しかけた。
「毛利殿にもひとつ頼みごとがあるのだが」
「断る」
「即答かよ」
 あまりにも早い返事に、つい元親が突っ込んで、はたと場が凍りついたのを感じ気まずそうに舌打ちした。
 厳島での戦いの末、元親は元就を討ち果たした。少なくともそのつもりだった。息を引き取るところまで見届けるつもりもなく、仇を討ったという解放感も安堵感もなく、ただぽっかりと胸に空いた穴が埋まることもなかった。ただ後味の悪さだけが残る。苦い思いがこみあげて、血だらけで地に伏した小柄な体をあらためる気もなく立ち去ろうとしたところで、元就の部下が駆け寄ってまだ息があることを告げたのだった。
 愕然としてとっさに振り向いたが、怯えたように、だが決して主を渡さないとばかりに抱き起す毛利の兵たちの様子に、元親は動けなくなった。
 忘れてやる。
 そんなことを言ったけれども。
 きっとその場にいた誰もが、そんなことができるわけないことを知っていた。ふたりの一騎打ちを見守っていた家康はともかく、元親の部下たちも毛利の部下たちも、彼らの間で繰り返された複雑な事情と関係性を全てなかったことにできるはずがないことをよく理解していた。
「元親。もう、いいだろう」
 憎しみからは何も生まれないんだ。
 ありきたりで陳腐なせりふだったが、これまでは上滑りするだけだったその一言が元親の胸中に響いた。理性と感情は別物で、それが正しいか正しくないかを判断するよりも早く感情に支配されることもあるけれど。
 それでもやはり、元就を殺したところできっと元親がなくしたものは何も戻ってはこないのだ。同じだけ彼のものを奪ってきたのもまた事実だろう。
「とどめを刺したいか?」
 そう静かに尋ねる家康に、元親は首を振ってうなだれた。
 そんな友人の肩を叩いて、先に行けと促す。あとのことは自分に任せろと。
 自分と元親との友情を引き裂き愚かな策に陥れた敵方の将を、自分が引き取ると家康は言う。そんな友人の甘さが元親にとってはたまらなく痛かった。もし自分が彼と同じように器が大きければ。違うやり方があったのかもしれないのに。
 涙を流しながらそう零す元親に、家康は笑顔で答えた。
 じゃあやり直せばいいじゃないか。
 まだ生きてるだろう?おまえも、毛利も。そして自分も。
 命があるのだからいくらでもやり直せる。壊したものはもう一度作り直せばいい。破壊されてしまったからくりを元に戻すよりはずっと難しいけれど。
「許せないのなら無理に許さなくていい。でも憎しみ以上にもっと強い絆が、それが友情とか愛情とか、そう言ったものではない名前のつけられない何かが、おまえたちの間にはあったのではないのか?わしはおまえたちのことに関してはほとんど知らないけれど、もし全く何の絆もなかったとすれば、」
 まともに目を合わすことのできない元親の顔をのぞきこみ、家康は諭すように言った。
「何の絆もない相手に、おまえは涙を流したりはしないだろう」



 面倒事は御免だと言い張る元就は取り付く島もなく、けれどどうしてもきちんと話をしたいのだと食い下がる家康に、仕方なくではまた後日ふたりで、と約束を交わした。
 そそくさと席を立って、従者を従え広間を出て行く元就を見送ると、どことなくほっとしたような溜息がそこかしこで漏れ聞こえる。
 するとすぐに再び障子の向こうで声がした。
「家康様。雑賀孫市殿がお見えです」
「おお、きたか!さあ入ってくれ」
 嬉しそうに答えるとやがていつもの冷静な表情を浮かべた女性が入ってくる。
「ようサヤカ」
「遅いよ孫市ー!俺先に来ちゃったよ」
「その名前で呼ぶな元親。遅くなって悪かった。色々後処理をしていたのでな」
 ぐるりと周囲を見回しひとりひとりを確認するようにうなずいて、孫市が最後に三成を認めてまばたきした。
「・・・元気そうだな石田」
「そう見えるか」
「いつものように顔色は悪いが」
「余計な世話だ」
 ぽんぽんと交わされる他愛のない会話にどうしようもなく癒された気がして、家康たちは顔をほころばせた。
「大谷の容態はどうだ」
「今のところは小康状態だ。急激に病が進行するような気配はない」
「そうか。それは何よりだ」
 心底そう思っているかは、彼女の無表情からは判断できないが、少なくとも一時は戦友だったとも言える相手を気遣う様は嘘ではないだろう。
「元親、姫から伝言を預かってきたぞ」
「ああ?鶴の字か。なんだよ。ありがたいご宣託でもくれんのかい?」
「まあそんなところだ」
「へえ?巫どのが、元親に?何だ?」
 興味深そうに身を乗り出す家康に、孫市は一瞬人の悪そうな笑みを浮かべ、元親を見た。
「愛されてますねえ海賊さん。だ、そうだ」
「はあ?」
 なんだそりゃ、と政宗が肩をすくめ、幸村に至っては目を白黒させている。
「意味が分からねえんだが」
「気づいていないのか気づかないふりをしているのか分からないが、よくも天下分け目の大戦を面倒な痴話喧嘩に巻き込んでくれたな」
 どうでもよさそうな口調で意味ありげな言葉を吐く孫市に、誰もが耳を疑った。
 それまで毛利が座っていた場所に腰を落ち着け、出された熱い茶にふうふうと息を吹きかける。その様子を無言で見守っていた皆は、それぞれ理解不能といった表情のまま凍りついていた。
「おいどういうことだ。西海の鬼が誰と痴話喧嘩だって?」
 おもしろそうな話じゃねえか、とにやりと笑って政宗が続きを促す。元親は何か言いたげに孫市を見つめていたが、やはり分からないとばかりに眉間に深い皺を刻んだ。
「何のことはない。毛利がおまえを騙した理由だ」
「ちっ。その話かよ」
 もう聞きたくねえ、とそっぽ向く元親だったが、話を聞きたそうなその他の者たちの雰囲気に、もう一度舌打ちして唇を噛んだ。元就とのことは今でも深い傷のようなしこりが残っていて、彼とはまともに目を合わせることができず、かといって何もなかったような顔ができるほど器用でもない。ふたりが同じ場所にそろったときからぴりぴりとした空気を放っていて、正直他の連中も居心地の悪さを感じていた。
 厳島での出来事は皆なんとなく知っていたが、かといって深い事情を知る者はほとんどいない。だからこそ孫市がこの場で話を切り出したことに興味津津だった。
「おまえは毛利がなぜ西軍についたかは聞いたか?」
「はあ?そりゃ大谷が話を持ちかけてきたからだろ」
「だがほぼ同時期に徳川も毛利側に同盟の打診をしていた」
「え」
 そうなのか、と全員の目が家康を向く。
 再び注目を浴びた家康は癖のように頭をかきながら、うなずいた。
「断られてしまった」
「そのようだな。別に毛利は豊臣には何の義理立てもない。どちらかというと恨んでいる側だ。それでも西軍についた」
 豊臣全盛期を息を殺して乗り切ってきたのだ。その間悔しい思いも苛立ちもしただろう。
 思えば不思議な話だ、と今更ながらに三成は思った。
 毛利とは仲良くしておけ、と大谷が言うから、そんなものかと納得した。実際毛利の兵力は魅力的で決して敵にしていいものではないというのも分かっていた。だが毛利が東軍になぜつかなかったのか、などと考えたことはなかった。そうでなくても、三成の頭の中はいかに家康を倒すかでいっぱいいっぱいで、他のことは全て大谷に任せきりだったのだ。
 ああ、汚いことも面倒なことも、全て押しつけてしまっていたのだ。
 本当に今更な罪悪感に浸っていると、ぽん、と軽く肩を叩かれる。目を上げると家康が笑っていた。
「まあこれは別に簡単なことだ。単に地理的な理由にすぎない」
「まあ、そうだよな。東軍についたら真っ先に中国が西軍に攻められることになるのは火を見るより明らかだ。俺でもそうするぜ」
 政宗の言葉に、幸村と三成がああそうか、とうなずく。
「だがもうひとつ理由がある。それは徳川、おまえが毛利に嫌われているということだ」
「へ?わし?」
 急に話を向けられて、思わず自分の指で自分の顔をさした。
「いや、確かに嫌われてはいるようだが・・・だがわしは特に毛利殿に嫌われるようなことをした覚えはないのだが」
 むしろ国主として尊敬するくらいで、敵対したくてしたわけでもない。
「なあ孫市、それと西海の鬼の痴話喧嘩がどうと何か関係あんのかよ」
 別に毛利側の事情などどうでもいい、そのおもしろそうな話はいつ本題に入るのかと政宗がせっついた。片膝をたてて茶菓子を頬張る姿はまるで子供である。諫めるものがこの場にいないからとやりたい放題だが、もしこの場に毛利がいれば即座にひっぱたかれていたかもしれない。
「元親、おまえは本当にカラスだな。言っておくが私はおまえと毛利の関係をそれはもう詳しく把握しているのだぞ」
 政宗を無視してそう言い放つ孫市に、元親があからさまに狼狽した。見る間に顔色が悪くなっていく。
「いいか、状況的に毛利は西軍に与するほかなかった。だがおまえはどうだ?徳川とは昔から懇意にしている。西軍に味方する理由はない。何もしなければ自然とおまえは東軍についていただろう。周囲を海で囲まれた国だ。中国のように、すぐさま大阪から攻められるという脅威も少ない」
「・・・・・・・・・・」
 黙りこんだ元親の代わりに、それまで口を挟まず酒を楽しんでいた島津が割って入った。
「つまり毛利どんは、長曾我部どんを己が陣営に組み込むために一計を案じたっちゅうわけじゃな」
「より強い水軍があれば毛利の水軍の疲弊度も減らせる。そして憎き徳川と元親を敵対させることができ、元親と共に戦場に立つことができる。一石二鳥どころか一石三鳥だな。おまえがもう少し賢い頭をしていればこんな策にはまることもなかっただろうが、おまえの馬鹿さ加減すらやつの計算通りと言ったところか」
「ぼろくそだなおい。でもちょっと待て、ひとつめと三つ目は同じじゃねえか?」
「違うな。ひとつめは結果論、三つ目は単なる私情だ。黙って聞け。ここまでは誰でもすぐに思い当ることだ。少しでも優位に立つためあらゆる策を講じて味方を増やすのは当然のことだからな。問題はそのやり方だ」
 孫市の言うとおり、少し考えれば、否、考えることもないくらい簡単なことだ。だがそう思わないのは、それぞれが自分の立場や事情に精いっぱいで、なぜあの軍がこっちの陣営にいるのか、などといちいち考えたりはしなかった。必要な情報はどの軍がどのような戦法を使い、それをどう凌いで攻略するかに終始しており、たとえ敵の寝がえりを誘うように策を練っていてもそれを発揮する前に大将戦にもつれこんでしまったため、結局たったの一日で勝敗が決してしまった。裏でどんな諜報活動が行われていたかを詳しく知る者や興味を持つ者はこの中にはほとんどいない。おそらくそれを最も得意とするのは毛利元就その人だろうと誰もが思った。
「ここまではおさらいと言ったやつだ。元親、そろそろ理解できたか?なぜ毛利がおまえと徳川を対峙させるように仕向けたか。なぜ毛利が徳川を敵視したか。理由はおまえだ」
「・・・・・・・俺かよ」
 唸るような声にぎょっとして皆が元親を見る。
 西海の鬼は思い切り顔を歪ませて、孫市を睨んだ。



 敗軍の将に貸し与える部屋ではないな、とこっそり嘲笑しながら、元就は静かに座っていた。
 気心の知れた従者を数人、身の回りの世話をさせることすら許されているこの状況に戸惑わないはずがない。徳川家康と言う男は、決して馬鹿ではない、と元就は思っている。甘いだけの人間ではないことは、彼自身が秀吉を討ったことですでに知れ渡っている。どんな奇麗事をほざこうが、どんな理想を掲げようが、彼のしたことは乱世を拡大させたことに他ならない。だがそれを正面から受け止めてあらゆる恨みからも憎しみからも逃げずに前へ突き進もうとする姿勢は、西軍の総大将だった石田三成にはないものだった。突き進む方向が違う。だがそれでも、家康に従う者も三成に従う者も、それぞれの主君を尊び、最後まで守ろうとしたのも事実だ。人の上にたつ将とはそういうものだ、と考える。さて、ではもし現在の家康の座に自分がいたらどうか。笑って敗軍の武将たちを許しただろうか。あまつさえ、自分のすぐ背中を守らせたり、共に茶を汲みかわそうとするだろうか。到底不可能である。おそらく何の躊躇もなく斬って捨てよと命令するだろう。
「気に食わぬ」
 全て済んだことだと水に流そうとする天下人も、彼とともに新しい時代を見守ろうとする宿敵も。何もかもが気に入らない。許された、などと思いたくはない。それは自身の矜持が許さない。だから元就は無理やり捻って自分の納得できる落とし所を考える。いわく、許されてやっているのだ、などと。この場には誰もいないのに、心の内で延々言い訳をする自分が滑稽極まりない。
 だが心のどこかで、ああやっぱりこうなったか、とどこかあきらめに似たものを感じているのも事実だった。もともと詰めの甘い策だった。元親が家康と連絡がとれていれば。孫市が西軍ではなく東軍にいたら。もっと早くに元親が冷静になって情報をかき集めていれば。おそらく厳島でわざわざ教えてやらずとも、やがて真相にたどり着いただろう。
 様を見よ。
 厳島で対峙したとき、元就はそうほくそ笑んだ。様を見よ。最後の最後で、あの鬼は自分に向けてかつてないほどの殺意を見せた。つまりはその間だけは頭の中を、元就でいっぱいに満たしていたのだ。他に何を考える隙もないくらいに、毛利元就という人間のことだけで埋め尽くしてやったのだ。ただそれまでの間中、ずっと家康に対する恨みのみで動いていた元親を複雑な思いで見ていたのだったが。
 我だけを見よ。我のことだけを考えよ。そうして苦しみもがけばいい。
 だから、あの時元親にとどめを刺されようがどうされようが、まったくもってどうでも良かった。目的はすでに果たしたのだ。己の命をかけて、最後に望んだのは中国の安泰でも毛利家の繁栄でもなかった。ただ己だけを見よ。と。忘れてやるなどと言われ激昂したが、少し冷静に考えるとそれが不可能であることに気づく。元就を殺したところで彼の中には未来永劫元就という人物の存在が息づくだろう。それこそ呪いのように記憶は生き続け、生涯あの男は苦しむのだ。
 だから、こうして生き延びていることは計算外だ。予想はしていたがその確率は限りなく低く、その後のことまで考えていなかった。それこそ冗談ではない。
 ぱたぱたと下品な足音が近づいてくる。部屋の外に控えていた従者がびくりと体を震わせるかのように背筋をのばし、そっと声をかけてきた。
「元就様。あの」
「良い。通せ」
「・・・は」
 不機嫌なのを隠そうともしない足音は、もうずいぶん昔から良く知るもので。特に身構えることなく振り返りもしなかった。
「邪魔するぜ」
 ばたん、と障子が開かれ大柄な男が姿を現わす。ほんのわずかだけそれを睨んでから、かしこまっている従者に目配せすると、心得た従者はすぐに立ち去った。
「孫市が来たぜ」
「そうか」
「全員の前で恥さらしてくれやがった。あの野郎」
「ほう」
 どっかりと腰を下ろした元親には目もくれず、愛想のない返事をするのみで、まるで興味なさそうな顔をする。
 雑賀孫市が何を告げたのかは大体見当がついている。おそらく鶴姫が余計なことを言ったのだろう。彼女から届いた文には、大人げないですなどとませたことが簡潔に述べられていて、すぐにくしゃくしゃにして捨ててしまっていた。
「足、痛ぇか」
「別に」
 無意識のうちにさすっていたのを見咎めたのだろう、傷をつけた張本人はどうでもよさそうにしながらものぞきこんでくる。分厚く包帯が巻かれているせいで畳みきれない片方の足を袴で隠そうとしながらそっぽ向いた。
「なああんた、家康のこと嫌いか」
「ああ」
「俺と喧嘩別れさせたがるほど憎いか」
「そうだな。死ねば良いと思った」
 きっぱりと言って目を合わせると、元親は戸惑ったような、怒ったような、何とも形容しがたい表情で唇を舐めた。緊張しているときの癖だ。そんなことを知るくらいには共にいた時間があった。決して多くはなかったが、ひどく密度は濃かったように思う。それもくだらない感傷だ。互いにぼろぼろに傷つけあった挙句この様だ。
「俺のこと嫌いか」
「そうだな、大嫌いだ。愚問だ」
「ああそうかい。俺もあんたのこと大っ嫌いだね。何しろ野郎どもの仇だからな。俺は一生あんたを許さねえ」
 一生だ、と力を込める元親に、元就はうっすらと笑った。
「何がおかしい!」
 かっとして胸倉に掴みかかってくるのを見上げて、抵抗もせずにただ喉を鳴らす。
 恍惚にも似た、満たされた気分だ。
「一生か」
 では忘れてやるなどと言ったのは嘘か、と。
 一言告げれば、うろたえたように元親の両手に二度三度力が加わった。
「あんたのやり方は卑怯だ。絶対おかしい。狂ってやがる」
 吐き捨てるように、だがしっかりと元就の着物を掴んだまま元親が言う。
 まるで小さな子供がすがるような、駄々をこねるような仕草に、つい手を伸ばしてしまう。がっしりとした彼の腕を掴んで引き寄せた。当然その程度で相手がよろめくはずもなく、何だよ、と責めるような鋭い鬼の目が返される。それに満足して、元就は表情を改めた。
「貴様が悪いのだ。全て貴様が悪い」
「何だそりゃあ。俺が家康と友達だから悪いってのか?自分と同じ陣営にいてほしかったらなんでそれを言わねえ?俺があんたを裏切って東軍に着くと思ったからか?」
「裏切る?信頼もしていないものをどうやって裏切るのだ」
 息がかかるほどの距離で、互いの目をそらすことはしなかった。
 こんなにも近いのに、そこに甘い空気も色香もなかった。一瞬の隙あらば噛み殺してやる、そんなやりとりにももう慣れていた。
「我が豊臣に下った時貴様は何をした?我が貴様との同盟を破棄せざるを得なかったあの状況で」
「・・・まだ根に持ってたのかよ」
「根に持つ?ああ持つとも。それこそ我も死ぬまで許さぬ」
 かつて短い間だけ、同盟を結び、台頭してきた豊臣に対抗しようとしていた時期があった。しかし中国は落ち、国を焦土としない代わりに帰属することを求められ豊臣に水軍を貸して四国を攻めたのだ。
「あの時貴様は対抗したではないか。豊臣に下れと忠告した我を無視して多大な犠牲を払っただろう。すぐに膝を折っていれば貴様の自慢のからくりもあそこまで無残に叩き潰されずに済んだであろうに」
 どうせ屈することになったのだ。結果は同じことだと元就は言う。
「なあ、やっぱりあんたおかしい。我儘すぎるんだよ。なんでも自分の言うとおりにしろってか?俺はあんたの駒じゃねえ」
「では我に愛しているなどとほざいたのは世迷い事か」
 愛しているというのはそういうことだろう、何を犠牲にしてでも我を愛せと、何よりも優先せよとこの男は大真面目に言ってのける。
 元親はひどい頭痛がするのを感じてぎゅっと目を瞑った。
「自分にできねえことを他人に強要するんじゃねえよ・・・」
 あんたはお家第一だろ。
 ほら、対等ではないではないか。
 そう矛盾をつきつけるが、元就は不思議そうに小さく首を傾げるばかりだった。
「貴様の全てを我に寄こせ」
「じゃああんたの全てを俺にくれんのかい?」
「やらぬ」
「ほら、これだよ」
 駄目だ、話が通じない。まるで別の次元の、別の生物と会話をさせられているような錯覚に陥る。
「あんた、本気で誰かを愛したり愛されたりって経験ないだろう。いい大人が、結局澄ましたツラしてても中身はガキなんだよ。相手にも感情があるってことを知らねえ」
 愛されたいのはてめえだけじゃないんだぜ、と。
 歯の浮くようなせりふを耳元で呟けば、どこかうっとりとした表情で元就はきゅっと唇を結んだ。

>>