ゆきたん2013






 おはよ、と背中を叩いてくる力がほんのわずかだけ軽い。
 そんなことに気づくのはおそらく、自分だけではないだろうか、とジャッカルは思う。
 いつも噛んでいる鮮やかな色したガムを奢れとねだってくる回数が減った。
 部活帰りにゲーセンやコンビニに寄る回数もだ。
 おかしいのは彼だけではないけれど、それを指摘する者もいない。ジャッカルも何も言わない。
 ただ側にいることで自分と、相棒の精神が安定するのであればそれはいつも通り並んでいればいい、と思った。
 すぐにでも復帰するだろうと誰もが縋るように楽観視していた幸村の入院は、思いのほか長引いていた。面会謝絶だった二週間を経てようやく容体が落ち着いたと聞いている。何の病かは分からないが、落ち着いたのならばすぐにでも退院できるはずだ、と誰もが何となく、当然のように神の子の帰還を信じていた。
 何故だろう、とジャッカルは思う。何故こんなにも、彼の復帰を「当然」だと思っているのだろう。もちろんそうであってほしい、という願望も含まれてはいるけれど、それ以上に幸村は病に倒れることなどありえない、という、まるで何か人を超越した存在であるかのような錯覚に陥っていなかったか?
 彼は<神の子>という異名を誇るほどに強い。あの真田ですら敵わないほどの圧倒的な力。にこやかな笑みで人を従わせるだけのカリスマ性。畏敬のまなざしで遠巻きにされることもあれば、それでいて彼の周囲には人が絶えなかった。神の子、とは誰よりもテニスが強いことの比喩ではなかったか。
「幸村くんはさ、神の子だなんて言われるけど違うんだよ。俺らと同じ人間で、病気だって怪我だってするじゃん。なのに俺、何にも分かってなかった。分かってあげられなかった。完璧な人間なんているわけないじゃん。なのに俺、」
「ブン太」
 膝をたてて顔をうずめる親友に、ジャッカルはかける言葉が見つからずに唾を飲み込んだ。
「辛くないのかな。ちゃんと幸村くん、相談とか、愚痴とか、言ってたのかな」
「大丈夫だよ。あいつプライド高いから俺らには平気そうな顔するけどさ、真田も柳もいるんだし」
 そうだろうか?
 ブン太を慰めながらジャッカルは頭の隅で自分の言葉に疑問を抱く。
 本当にそうだろうか?
 悶々としながらも厳しい練習は続いた。それこそ、一度でも敗北すればもう二度と幸村は戻ってこないのではないか、と思われるほどに必死だった。
 仁王も部活をさぼらなくなった。赤也はあまり反抗しなくなった。
 ただひとりを欠いただけで、まるで途方に暮れた迷子の犬のようではないか。
 

「今だから言えるんだぜ」
 ふたりきりで会話を交わすことは、実はそう多くはない。
 なんだかんだと人の輪の中心にいることが多い幸村を探してジャッカルがやってきたのは屋上庭園だった。仁王あたりがいるかもしれない、と思ったが杞憂だったようだ。さすがに部活のない日にわざわざ登校するほど彼も暇ではない、のかもしれない。仁王のことはあんまりよく分からない。同じ高等部に進学することだけは確かだ。工業の方へ進むかと思ったのだが。
 穏やかな笑みをたたえて育てた花たちに水をやりながら、幸村が小さく首を傾げてジャッカルに話の続きを促す。
「あ、勘違いするなよ。おまえが一番大変だったことはちゃんと分かってる。ただ俺が言いたいのはだな、その。」
 ただひとこと、誕生日おめでとう、と伝えるだけのはずだったのに。
 何となしにとりとめのない話を一方的にしながら、ジャッカルは少しだけ汗の浮いた頭を撫でた。
「やっぱりおまえがいないと何にも始まらねえってことだよ」
 だからありがとうな。
 <ありがとう>の中に複雑でかつ様々な、たくさんの意味をもたせて、そう告げる。
 春の甘い匂いがして、ああ、もうすぐブン太が嗅ぎつけてくるかな、と思った。


「幸村くん発見!ていうか何でジャッカルがいるんだよ」
「いちゃ悪いかよ!」
 険悪な言葉の応酬とは裏腹にふたりは笑いながら互いの拳をとん、とぶつけてみせた。
「わざわざ水やりに来たのか?マメだねぇ」
「まあね。もちろん美化委員の人たちを信用してないわけじゃないけど、もうここの屋上庭園ともお別れだし」
「そんで今度は高等部の校舎に屋上庭園造る気だろぃ?」
「ふふ。どうかな?」
 さぁ、おしまい、と幸村は如雨露を床に置くと今度はしゃがみこんで土を撫で始めた。
「さっきまで仁王がいたんだよ」
「え、まじで?」
 昨日遊んだのにあいつ何も言わなかった、とブン太がむくれた顔をする。
「これを置いて行った。無言で」
「無言で?」
「正確には意味不明な単語を発して」
「ああ」
 ふたりは同時にうなずいて白けた表情を浮かべながら、仁王が置いて行ったというそれを見る。
 そっけなく、無造作にベンチに置かれた一輪の花。せめてもう少し何かやりようがあるだろうと思いながらブン太が近づいてのぞきこんだ。
「なにこれ」
「カトレアだね」
「なんで一本だけ?」
「高いからじゃない?大輪だから千円くらいするよ」
「そんなに!?」
 食べられるわけでもないのに、というせりふをぐっと飲み込んで、おそるおそる花びらに触れてみる。
「なんでカトレアなんだろうな?幸村の誕生日プレゼントのつもりなんだろうけど」
「うーん。想像だけど、単に今の時期咲いてる花で一番ポピュラーだから、じゃないかな。目立つしギフト用に喜ばれるから」
「仁王が花言葉とか誕生花とか知ってるわけねーしな。あいつが知ってたらキモイ」
 うひひ、と笑いながら、カトレアをそっと押しやってベンチに座った。
「俺の誕生花はまだ咲いてないね。カトレアの花言葉は・・・何だっけ」
 ガーデニングは好きでも花言葉にはそれほど興味はないようである。
「俺ケーキ焼いたんだ。あとで食おうな!」
「うわ、嬉しいな。ブン太の手作りケーキ、俺好きなんだよね」
「まじで?幸村くんのためならいくらでも焼くぜ!」
「ジャッカルが?」
「ジャッカルが!じゃなくて俺が!ジャッカルはラーメンでも茹でてろよ」
「なんでだよ!!」
 漫才のようなやりとりに、とうとう幸村はけらけらと笑いだした。