「何か幸村部長機嫌悪いっすね」
ちらちらと窓のそばにあるテーブルを見ながら、少し離れた場所で赤也が囁いた。相手は丸井ブン太とその相棒のジャッカルである。三人そろってそっと見やれば、物憂げに頬杖をついてぼんやりしている我らが立海テニス部部長の姿があった。ふわふわとした波打つ髪に整った容姿、気だるげな表情と雰囲気が合わさって何とも言えない雰囲気を漂わせている。
前日の深夜に降り始めた雨は豪雨となって合宿所を覆っており、時期外れの台風接近のニュースに予定されていた練習は全て屋内での自習練になってしまった。
午後の自主練時間もだいぶ経過してそれぞれが腹ごなしようかと考えているところだったが、どうやら朝から機嫌のよろしくない幸村のそばに近寄ろうとするものはほとんどいない。
隙を見て柳や真田がたまに声をかける程度で、あまり反応しない幸村にさすがのふたりもお手上げ状態である。
「うーん。雨だからじゃね?」
「ああ、たまに天気が悪いと頭痛がするって言ってからな、たぶんそれだろう」
「えっ、大丈夫なんすか」
心配そうに唇を尖らせる後輩のもじゃもじゃ頭を乱暴に撫でくりまわして、丸井はぷう、とガムの風船を膨らませた。
「平気だろぃ、ほら、心配性なおっさんがいるし」
ほれ、と顎をしゃくって促せば、そろそろと幸村のいる方へ近づいて行く真田がいた。
「幸村」
いつものように愛想どころか怒っているかのような表情をたずさえ声をかける。
幸村は窓の外を眺めたまま振り向こうとしなかった。
どんなときでも笑顔を絶やさない彼にしては非常に珍しい光景で、けれど親しい仲間たち、つまり赤也たちにとってはあまり歓迎したくない状況なのも確かで。
「幸村、その、大丈夫か」
「何が」
短く返ってきた返事は冷ややかで、ぐっとその場の気温が下がったかのようにも思えた。
彼らのやりとりを見ていない他の選抜メンバーたちが一斉に、寒くなってきたな、と体を震わせる。
(いやいやそこに冷気を放出してる人のせいだろぃ)
心の中だけで呟いて、丸井は気づかれないようにふたりのやりとりを観察することにした。
「その、朝からあまり気分が良くなさそうだったからな。やはり具合が悪いのではないのか」
「気分は悪いけど」
「なにっ」
ざわざわしている食堂に真田の声が響き渡る。ぴくりと幸村のこめかみが引きつった気がして、丸井たち三人は音もなく立ち上がると同時に三つほど距離をおいた別のテーブルへと移動した。何事かとこちらとあちらとを見る他のメンバーたちに肩をすくめてみせてから、黙って再び腰を下ろす。
「やばいっすよね」
「そうだな、ここまで離れてれば大丈夫だろうけど」
「もしとばっちり食らっても全部受けて立つぜ。ジャッカルが」
「俺かよ!」
「今は漫才はいいっす」
「漫才じゃねえよ日常だろぃ」
はいはい、と赤也はどうでもよさそうに答えてぐるりと周囲を見渡す。そういえば他の先輩たちはどうしているのだろう、と不思議に思っていると、反対側のテーブルに自分たちと同じようにして幸村と真田を観察している三人の姿があった。柳は一心不乱にノートをとっているし、仁王と柳生は互いにこそこそ喋りながらふたりを見ている。
「いざとなったら柳先輩が何とかしてくれるっしょ」
「ノーテンキだなおまえ・・・」
柳は最後の最後に手は差し伸べてはくれるけれど、基本あのふたりの間に起こる出来事に関しては傍観者の立ち位置を崩さない。
「真田にトドメが刺さる直前で止めてくれることを祈るぜ・・・」
アーメン、とジャッカルが不吉なことを口にして十字を切った。
「幸村、具合が悪いなら医務室に」
「行かない」
「何を言っている!倒れでもしたらどうするのだ!わがままを言うな!おまえは王者立海の部長としての立場をもっとよくわきまえろ!少しは自分の体のことを考えて発言しろ!いいから立て!」
「うるさい!!」
がっしゃーん。
勢いよく何かを叩きつけ、硝子が割れる派手な音がした。
「あー・・・。高いんですよあのティーカップ」
「ピヨッ」
柳生が眼鏡を押し上げながら言った一言に謎の言語を発して仁王はご愁傷様、と拝む真似をした。
がたん、と音を立てて椅子から立ち上がった幸村は、ぎょっとして棒立ちになっている真田の襟首を掴んでがくがくと揺さぶり始める。
「何だよおまえいちいちいちいち説教か!?俺に説教?ずいぶん偉くなったもんだな真田のくせに!」
「まてまてまてまて」
あまりに揺さぶられる勢いが強すぎて舌を噛みそうな真田が必死に逃れようとするが、悲しいかな幸村の腕力はおそらくこの場にいる誰よりも強いのだろう、全く抵抗できないでいる。決して強そうには見えないむしろ儚げな外見と、ごくごく平均的な太さの腕でどうしてここまで真田を良いようにできるのか人体の神秘である。誰もがぽかんとしてふたりのやりとりを眺めていたが止めようとする者はひとりもいなかった。
「雨なんだよ雨。分かるか?雨のせいで髪はまとまらないしテニスはできないし頭痛はするし最悪なんだよ!それが何だよおまえだけ余裕の表情しやがっておまえはそんなに医務室が好きか!そんなに好きならもう医務室の子になれ!!」
「言ってることが支離滅裂ですよ幸村くん」
「柳生、突っ込みを入れるなら本人に聞こえるように言わないと意味がないぞ」
「嫌ですよ、私はまだ死にたくありません」
「その代り真田が死にそうじゃけど」
がくがくと襟首を捕まえられて揺さぶられるうちに呼吸が苦しくなってきたのか、真田はギブアップ寸前である。顔は紫色に変色し始めており冷たい汗がだらだらと滴り落ちていた。
「ゆ、ゆき、む」
「あーイライラする。なんなわけ?」
「ゆ、」
そろそろ止めたほうがいいんじゃないの、と丸井が柳に目配せしようとしたところで、幸村が真田の襟首を掴んだまま大きく振りかぶって-----
「うああああああああああああああああッ」
ガッシャアアアアアアアアアアアアアアアアン!!
投げ飛ばした。
幸い誰も使用していなかったテーブルに乗り上げ、空の皿やグラスと一緒に滑り落ちて床へとダイブした。
「うわー・・・」
「移動してて良かったっすね」
「そうだな、あのままあそこにいたら巻き添え食らうところだった」
良かった良かった、と互いにうなずきあい、視線を戻すと、仕方なさそうに柳が真田の方へ歩み寄って大丈夫か、と全く感情のこもらない声で尋ねるところだった。
柳生も嘆息して幸村の方へと寄って行く。
「幸村くん。頭痛がするのでしたら、暖かいハーブティでもいかがですか」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・うん」
暴れてすっきりしたのか素直にうなずく幸村に、もう近付いても大丈夫だと判断して丸井もそそくさと近寄って行く。
「おいしい焼き立てアップルパイあるぜぃ!取ってきてやるから一緒に食わねえ?」
「うん」
ようやく笑みを浮かべた幸村に、赤也とジャッカルも安堵のため息をつく。
「あ、じゃあ俺も食べたいっす!」
「やぎゅ、俺はコーヒーが飲みたいぜよ」
「自分でやって下さいよ。柳君は緑茶でいいですか?」
「ああ、すまん」
ほのぼのティータイムが始まったようだ。
ふふふ、ははは、と和やかに談笑を始める立海メンバーたちを尻目に、床で座ってぴくぴくと震えている真田に一部始終を目撃してしまった宍戸が近寄って行く。
「お、おい・・・大丈夫か」
一応怪我はないか尋ねてみたが、真田は魂を吐きだすかのような深い深いため息をついて、首を振った。
「すまん、片づけを手伝ってもらえないか」
何この人たち怖い。
満場一致で同じ感想を抱いた中学生たちは、早く台風が遠ざかってくれないかと祈った。