夏の終わり






 珍しいこともあるものだ、と幸村は部屋の入り口で唖然と立ち尽くしていた。
 今日は家族が旅行に行っているので久々に泊りに来ないか、と誘われたのは真田の家。立派な日本家屋に広い庭、真田の部屋の外から出られる庭の片隅には少し雰囲気にそぐわない小さな花壇がある。現在は何も植えられておらず雑草だらけだ。
「何をしている、早く入れ」
 背後から促されておずおずと足を踏み入れた。
 ゴォォ、と彼の部屋では聞きなれない機械音。
 ひんやりとした風がむき出しの腕や頬に触れて心地よい。
 設定温度は27度といったところだろうか。
 軽く背中を押されて、丸いテーブルの前に座ると水滴のついたグラスになみなみと注がれた麦茶を出された。大きな氷がカラン、と涼しげな音を立てる。
 向かい側に腰をおろした真田は、一瞬だけクーラーを見上げて、すぐに幸村に視線を戻した。
「寒くはないか」
「ああ、うん。ありがとう。珍しいね、君がクーラーを入れるなんて」
 機械音がやたら響くのは古いせいだろう。
 一応設置してはあるが、彼がそういったものに頼ることはほとんどしない。
 以前なら幸村が来たときに散々文句を言われ渋々つけてもすぐに消してしまっていた。それが、今日は来訪前に部屋を冷やすことまでやっているのだから驚愕する。
「まあ、この暑さだからな」
 言いながら、真田はほんの少しだけ視線を落とした。
 言いたいことは、本当は分かっている。
 気を使わなくてもいいよ、と言うせりふを飲み込んで幸村はただ微笑んだ。
 同情ではない気遣いが嬉しかった。
 そんな配慮をするようになったんだな、と思うと、泥の中に横たわっていたようにも思える八ヶ月も無駄ではなかったのかもしれない。
 ことにふたりの関係は幸村の入院前と退院後で大きく変化していて、それが真田のちょっとした気遣いだったり、幸村の落ちつきぶりだったりと分かりやすいものもあれば何となくふたりの間に流れる空気と言った表現しづらいものだったりする。
 雰囲気が変わったな、などとわざわざ指摘する人はいないけれど、何となく仲間たちは気づいているだろう。ただ黙って流してくれる彼らは非常にありがたいと思っている。あの赤也ですら、何も口にしないのだから、大人になったものだ。
 ちりん、と風鈴が鳴る音がした。
 幸村はふいに顔を上げて振り返る。
「ねぇ、もうクーラー止めていいよ。それより窓を開けてもいいかな」
「いいのか、暑いぞ」
「平気。もうじゅうぶん涼んだし。それに暑いのはそんなに嫌いじゃない」
 あの灼熱の中駆けまわっていたのはつい一週間ほど前だったというのに、今更のようにいいのか、などと聞いてくる真田がおかしかった。
 真田がリモコンでクーラーを止めたのを確認して、がらりと窓を開ける。
 一気にぬるい風に煽られて身構えた。蝉の鳴き声と庭に備え付けられている小さな池のぽちゃん、という水音。地面を焦がすような白い光。目を閉じると息を乱しながらがむしゃらにコートを駆けずり回る地面をこする音が聞こえてくるようで、少しだけ耳を傾けてみる。
 ああ俺たちの夏は終わったのだな、と改めて思う。
 部長になってからの一年、いろんなことがありすぎて音速で日々が過ぎ去っていったかのようだ。結局、一年のうち半分以上戦線を離脱していたわけだが。
 ふいに右側に大きな影ができて振り向くと、真田が自分の影に幸村を隠すようにして隣りに立っていた。
 いつの間にこんなに大きくなったのだろう。
 こうしてまじまじと彼を観察する機会がほとんどなかったな、と思う。
 まるで大木の幹のようだ。
 どっしりとしていて、揺るぎない。
「真田はこの先、どうするの」
 ぽつりと口をついて出た声がやけに頼りなくて、慌てて幸村は咳ばらいをした。
 僅かにこちらを見下ろすような視線をあえて正面から受け止める。
「どうする、とは?」
「だから、プロになるのかってこと」
 その実力はあるだろう。これからもまだ伸びる。あの手塚をも圧倒する腕は、今後の日本男子テニス界を牽引するひとつの宝となる。
「おまえは?」
 対する真田はあまり興味なさげな声音だった。
 ちょっぴり肩を落として、軽く舌打ちしてみせた。
 はしたない、と横目で睨まれる。
「俺は・・・すぐは無理だよ。まだしばらくは定期的に通院しなきゃいけないし、それに」
 やり残したことがあるから、と庭の木を睨んだ。
 色々なものを背負って、戦って、それはとても苦しかった。
 勝利にこだわるやり方を捨てるつもりはない。
 けれど、少しだけ、何かが変わった気がする。あの生意気な青学のルーキーのおかげだなんて絶対思いたくはないけれど。
「俺は立海三連覇の夢、捨ててないから」
「そうか」
 あれ、それだけ?とむっとしながら隣りを見やると、いつの間にか真田の強い視線はこちらを向いていて、ぎょっとした。
 何もかもを見透かそうとするような目が好きだ。
 でもそれはこちらがきちんと構えているとき限定である。
 隙を狙われるのはごめんだ。弱気な自分など、見せるのは生涯でただ一度でいいと思っている。そしてその最後の機会はとうに使ってしまったから。
「つまり向こう三年はまた同じ戦場に立つ、ということか」
「え」
「なんだその顔は。不服か」
 不服って。中学生がそんな言葉使うなよ。
 そんな突っ込みを飲みこみながら、幸村は苦笑するしかなかった。
 指の間からこぼれ落ちてしまった勝利を、拾い上げる。
 それはそう簡単なことではないが、決して不可能ではないと。
 ふたりは分かっていた。