自由の王






 幼い頃からすでに二十年の習慣となっている早朝ランニングの、走るコースを変えたのはちょうど去年の今頃だった。
 慣れた海沿いからまだ人気の少ない商店街を抜ける少し走りにくい道、仕舞いきれていない看板などの障害物を避けながら奥まった住宅街へと続いて行く。まるでどこか別の世界へ続くかのような錯覚に捕らわれる、まだ薄暗い夜明け。誰もいない十字路を左へ折れ曲がりちょうど百メートル。
 ぱしゃん、と涼やかな水音がして、シャッターが半開きになっている小じんまりとした店の前で立ち止まって息が整うまで六十秒。
「おはよう」
 周囲の、眠気漂う街にあってひどく明るい声が響く。
 よっこいせ、と年寄りのようなことを呟きながら、シャッターをくぐってひとりの男が姿を現した。半袖のシャツにジーンズ、濡れたエプロン。すでに一仕事終えたばかりなのか、額にはうっすらと汗がにじんでいた。
 少しずつ昇る朝日に照らされて、青のような黒のような艶やかな髪がくるんと美しく映えるのがとても好きだ、と真田はひっそり思う。清浄、快活、明鏡止水といった単語が脳裏に浮かぶ。
「ああ、おはよう」
「水、いる?」
「もらおう」
 朝の大事な儀式のように、一方は満面の笑みを、そしてもう一方は微かに頬を緩ませるのだ。


 高校で三連覇、という思いを成し遂げ頂点にのぼりつめた幸村は、周囲の期待や予想通りプロに転向した。手塚や跡部、幸村、そして真田に越前に切原と言った若きプレイヤーたちは瞬く間に世界で名を上げ、スポーツ界のみならず日本を代表する人材として知らぬ者はどないほどに有名になっていった。
 しかしそれで満足しないのが、幸村精市という男だった。
「やりたいことはたくさんあるんだ。どれかに絞ろうとも思わないし、全部手に入れたい」
 嫌味が無いほど不遜で、我が侭で、それでいてああこの男ならそれもありかもしれない、と思わせるのが幸村である。あまりに早すぎるプロ引退は一時期ひどく世間を賑せたが、ただひとり真田だけは驚かなかった。まあそんなこともあるだろうな、と何となく納得さえしてしまったのは、すでに付き合いが二十年以上になるからだろうか。
 テニスは続けるけれど、他にやりたいこともあるから、と彼は日本へ帰国すると立海大へ入学した。中学、高校と同じ部活で切磋琢磨した友人たちのうち幾人かはそこに在籍し、卒業していた。もう数年早ければ良かったかな、と幸村は笑う。飛び級でさっさと卒業したかと思えば絵を描くと言ってフランスへ渡り、みそ汁が恋しいと行って戻ってくると今度は生花店でバイトを始めるのだから、まるで予想がつかない謎の行動である。適当にさえ見える彼の行動はどこまでも自由だった。鳥のように、と言えば聞こえはいいが、幸村いわく「俺はくらげみたいにふわふわ生きたい」らしい。くらげは思い立っても日本海からマリアナ海溝へちょっくら移動してみたりは、しないのではないだろうか。
 一方、真田も幸村の引退から二年後、プロを引退すると日本へ帰国し、実家の道場を継いだ。真田にとって多大な影響を与えた祖父が老いて少しだけ小さくなってしまったのも、理由のひとつかもしれない。
 数年の時を経て彼らはまた同じ国で、同じ日常を営むようになった。
 ちょっとおもしろいよね、懐かしいよね、と幸村は言う。
 店の入り口にあるベンチはどこからか拾ってきたもので、最近あまり店に顔を出さなくなった店長ですら気づかないほど当たり前の風景として溶け込んでいる。
 そこに腰をおろして水滴のついたコップで一気に水を飲み干すと、体の隅々に沁みわたるようだ。
「おまえはこのままここに就職するのか?」
「うーん、どうかな。跡部がね、南フランスに行かないかって」
「跡部?」
 忙しそうに商品である花々の水揚げをし、水替えをしながらちらっと真田を見てうなずく。
「そう。あっちのテニススクールで講師やらないかって言っててさ。まあそれもバイトみたいなもんだけど」
「あいつは相変わらず手広いな」
「そうだね。俺が南フランス行きたいって昔言ってたの覚えてたみたいで。何だろう、心配してくれてるのかなあ。あいつけっこう面倒見いいよね」
「おまえがフリーターやってるのが気に食わないんだろう」
「いいじゃんフリーターでも」
 別に不自由してないし。
「就職するだけが人生じゃないよ真田。自立できてれば好きなことして暮らすのもまた一興」
「なにが一興、だ。飽きっぽいだけではないか」
「そうとも言う」
 ふふふ、といつものように声をたてて笑った。
「大学時代の教授が絵画コンクールの手伝いしないか、て誘ってくるし、あと蓮二の話真田聞いた?」
 いまでも二、三ヶ月に一度は会っている親友の名前を出すと、真田は空になったコップを差し出しながらうなずいた。
「個人会計事務所を開くのだろう?まさかおまえに手伝えと言ってきたのか」
「ホームページのモデルやれって!何それわけわかんない」
「客寄せパンダか」
「俺パンダじゃないし!」
 むう、と頬を膨らませて拗ねる顔は幼い。
 相変わらず大人げない、と思いながら軽く頭を叩いてやる。
「何にせよ、また海外へ出るなら事前に連絡してくれ」
「真田も一緒に行こうよ」
「そう簡単に行けるか」
「行けるよ。何だって、俺たちは自由であるべきだ」
 そうだろ、真田。
 言って、大きなじょうろいっぱいに水を溜めると真田の足元に出したバケツに中身を注いでいく。
「またみんなでテニスしたいね。赤也の帰国に合わせて集まろうよ。蓮二の事務所開設祝いも兼ねてさ」
 家業を継ぐためがんばっている柳生も、親子仲良くラーメン屋を切り盛りしているジャッカルも、保育士として奮闘しているブン太も、どこで何やっているか全く分からないけれど、携帯の番号は変えないままきちんと電話には出てくれる仁王も。変わらぬ絆を持つ大事な仲間たちを呼んで。
 社会に出てそれぞれ集まる事さえ困難な状況でも、幸村は何てことない顔で言ってのける。
 俺たちは自由なのだから、と、何の疑いもなく。