煩悶






 がさがさという袋を取り出す音がして、のんびり雑誌をめくっていた白石は顔を上げた。二段ベッドの上段からだ。白石が寝そべっている下段からは見えないが、夜食に駄菓子でも食べるのだろうか、とそこにいるだろう人とのギャップにこっそり笑う。お洒落に紅茶とクッキー、なんてものを口に運んでいそうな彼だが案外庶民的であることを知ったのはつい最近。合宿で同じ部屋に割り当てられてからである。気まぐれにペロペロキャンディをあげたとき子供のように喜んでばりばりと噛み砕いていたから。そこは可愛くペロペロしろよと言いたい。
 声をかけてみようか、と口を開こうとした瞬間、ちょうどかの男がぬっと顔を突き出して下をのぞきこんだ。
「ねえ、不二か白石、悪いんだけどその辺に水ない?」
「不二やったら今おらへんよ。水これでええ?」
 ほい、とまだ開けていないペットボトルの水を放り投げる。危なげなくキャッチして、幸村がありがとう、と微笑んだ。
「何か食うてるの?」
「ううん、ただの薬」
「薬?」
 具合悪いのか、と心配そうに尋ねる白石に、彼は困ったように小さく笑って首を振った。



 精市、と彼を下の名前で呼ぶ人間はめったにいない。
 驚きもせずに立ち止まって振り返ると、赤也の愚痴(どうせくだらないに決まっている)から解放されたのだろう柳が軽く手をあげて近寄ってくるところだった。
「いつも食事が終わるとさっさと部屋に戻ってしまうからみんな寂しがっているぞ」
「みんなって誰だよ」
 苦笑して、肩から羽織っただけの上着の袖をぴんと弾いた。
「食後に薬飲まないきゃいけないだろ。嫌なんだよ人前で飲むの」
「ああなるほど。ちゃんと食後と寝る前服用しているな。感心感心」
「うっるさいのいるからさ」
 とは言え、合宿が始まった直後までは何かと一緒にいた男が最近あまり幸村のそばにいないことに柳は気づいている。タッグを組まされた後戦わされ、真田は幸村に敗北して一度は合宿を去った。革命軍団として舞い戻ってきたのはいいが、どうもふたりの間にはぎくしゃくした空気が流れ気まずさが漂っているようだ。
 それも仕方ないことだとは言え、同じように戻ってきた柳や仁王、ジャッカルに対しては普通に接してくるのだからまた複雑である。
 単に戦って幸村が勝利したから、真田が敗北したから、という理由ではないだろう。そんなことを言えば、ふたりは出会ってからこれまで何度も対戦している。真田が勝つこともあれば幸村が勝つこともある。試合の後どちらかが拗ねたり落ち込んだりしていても、帰ろう、とどちらかが声をかければすぐ元に戻る。当然だ。一度の対戦でふたりの関係が壊れることなどありはしないのだ。
 ではこの合宿でのふたりの試合はこれまでと何が違うか。柳は考える。
 真田のまとった黒いオーラ。それにほんの僅かだが怯えを見せた幸村。試合終了後握手を交わす事も目を合わせることもせず去って行った真田の態度。幸村の中で膨れ上がっただろうわだかまり。戸惑い。そういった感情がぐるぐるとうずまいて、消化しきれないうちに何となく避けるようになってしまった。
(と、いうところか)
 確かにあのような態度を見せられれば声をかけづらいだろう。
 結局まだ子供なのだ、と柳は思う。たとえうわべだけでも、儀礼的にでも、挨拶のひとつやふたつ交わしてしまえば自然と元通りになるだろうに。そこまで余裕を見せるにはまだ自分たちは幼すぎるのだ。


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「幸村」
 低い、圧力すら感じる声に幸村はひっそりと笑った。ああ、怒っている。いつも怒っているような顔と話し方だが、幸村にはそれが本当に怒っているのか、それとも実は機嫌がいいのか、細かな感情の揺れ幅すら読みとれる。だからこれは彼が本当に怒りつつ、半分くらいは不安やら心配やらといったものを含ませているのがすぐに分かった。
「これは何だ」
「なんのこと?」
 とぼけてみせれば、さらに彼の眉間のしわが深くなる。
 U-17選抜合宿前のことだ。
 今後の相談もしたいし、と家へと誘った幸村に、真田は拒否しなかった。今後の何についての相談かすら聞き返さず、そうか、と短い応答をしたのみで黙ってついてくるのだから、おまえは忠犬の生まれ変わりか何かか、とちょっと思う。
 幸村の母の強い勧めで夕食を共にし、部屋でくつろいでいるときだった。
 そういえば薬、と一日分の四つの袋を取り出して、病院から渡されたチェックシートに適当に印をつける。これはいつも母親がチェックするので煩わしいことこの上ない。わざわざ夕食の席で、「ちゃんと薬を飲むのよ」などと言われれば飲まないわけにもいかず、ぐだぐだしていたら真田に早く飲めと急かされる。
 促されて座布団に座っていた真田は、ふいに部屋の隅にあるゴミ箱から小さなゴミが落ちているのに気づいた。だらしのない、と説教しそうになったが、幸村はゴミを放置するような性格ではない。風か何かに飛ばされたのだろうと言葉を飲み込んで立ち上がり、薬を指でつついている幸村に代わりの小言を言ってからゴミを摘まみあげた。
 白くて小さな袋は空ではなかった。
「何故、飲んでもいない薬が捨てられているのだ!」
 勢いに任せて怒鳴るとぐほっと変な音をたてて幸村が口に含んだ水を噴き出し濡れた唇をぬぐいながら、慌てたように振り向いた。
「げ、ばれたか」
「ばれたか、ではない!貴様、なんてことを・・・!」
「だってー。苦いんだよ」
「そういう問題ではない!」
 般若のような怖い顔でずかずか近づいてきて、容赦なく頭をはたいた。
 痛いよ、と涙目で抗議するが、真田はそんな顔に絆されることなくその後延々説教を聞かされることになったのだった。


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 そうやって叱られるのを分かっていて、幸村は何度も薬を飲むのをさぼった。けれど合宿で真田と気まずい雰囲気に陥って以来説教する者はなく、柳でさえそこまで過保護ではなかった。そうなると不思議なもので、きちんと欠かさず服用するようになった。自分でも理解不能だ。
(ああ、もしかして構われたいだけか)
 なんて子供じみた発想なのだろう。
 自嘲気味に口元だけつりあげて笑う。
 遠くで真田が帽子を脱ぎながら誰かと話しているのが見えた。立海のメンバーではない。あまり、知らない顔だ。それが何だか歯がゆい。
(誰だよ)
 不動峰?ルドルフ?知らない、そんなものは。
 自分の知らない間に、彼は彼だけの世界を知り、そこに自分はいない。必要とされていないのだろう、と思うと悔しくて、気にしている自分が惨めだ。なぜ勝ったのにこんな思いをしなければならないのか。
 せいいち、と名を呼ぶ遠慮がちな声がする。先を歩いていた柳が足を止めてこちらを見ていた。その表情には複雑な色が浮かんでいて、きっと幸村と、そして真田のことを気にしているだろうことがありありと伝わる。それでも何にも気づかないふりをして、幸村は微笑んだ。
 明日、真田の目の前でわざとらしく薬を捨ててみようか。彼はどんな反応をするだろう。
 怒鳴ってくれればいいのにな。
 そしたらいつものように拗ねたふりをして、唇をとがらせて文句を言うのだ。
 そこまで想像してから、それでも、きっとそんな真似はもうしないだろう、と思った。