軍師の夢






「夢をね、見るんだよ」
 そう静かに呟いて、半兵衛は穏やかに波打つ瀬戸海を眺めた。
「戦に明け暮れていると言うのに、とても穏やかで幸せな夢だ。でも、目を覚ますと何も覚えていない。ただ胸が暖かくなるような、切ないような、そんな思いだけ覚えている」
 潮の香りに混じって近くから漂うのは心を落ち着かせる、それでいて厳粛さをともなう香りだ。
 これは何、と尋ねた相手は無愛想に、神事に使うものだ、とだけ教えてくれた。
 無視されるだろうな、と思いながらいちいち細かなことを聞く半兵衛に、元就は意外ときちんと答える。
 律儀な性格なのか、一度は同盟を結んだ相手だからか、半兵衛は自分の中の「毛利元就」像を改めた。
 ふわりと風に揺れる狩衣の袖が柔らかそうで、つい手を伸ばして触れたくなる。
 半兵衛の容姿に誰もがたおやかで美しい、と口にするがその実性格は結構過激であることを第三者は知らない。
 それはきっと隣りに佇むこの男も同じだろうと思うと、勝手に親近感が沸くのである。
「厳島は美しいね。何度も戦で血に濡れたとは思えないよ」
 ひとつ強風が吹いてはらはらと頬を打つ白銀の髪を押さえながら言うと、無表情に海を眺めていた元就の顔が微かに綻んだ。
「当然だ。ここは神聖なる神の島。幾度蹂躙されようとも必ず清め、穢れを払う」
 それがここを守る者としての義務だ、と言う。
 ひと一人が間に立てるほどの距離があったところを、半兵衛は悪戯心で肩に触れる程度まで接近してみた。
 案の定、元就は嫌そうな顔をして振り返ったが、何も言わなかった。
「君は僕に遠慮している?」
「・・・・・・遠慮?何故我が貴様などに遠慮しなければならぬ。驕るでないわ」
 鼻で笑う姿に苦笑した。

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 座敷に正座して対面しながら、眉間に深い皺を刻んだ元就に、半兵衛はこれ以上ないほどの満面の笑みを浮かべていた。
「ふふ、楽しいよね」
「・・・・・・竹中」
「なんだい元就くん」
「これは何だ」
「何だって」
 お酒だよ、お酒。
 見れば分かるじゃないか、とにこにこしながらきっぱり言ってのけた。
 つんと香るそれは僧坊酒で、かなり高価なものだ。
 さらに鮭をはじめとする豪勢な膳が並べられていて、豆腐に味噌までついている。
 おかしいのは、用意されているのは清酒なのに隣りに置かれているのが瑠璃杯なところだ。ちぐはぐもいいところで。
 これはかの織田信長が好んだとかいう、ワインを注ぐものではないのか。
 青い硝子は確かに美しいが、どう見てもなんだかおかしい。
 秘密の相談事があると言ってやってきた半兵衛だったが、何故こんな事態になっているのか理解不能だ。
「雉もお願いしたんだけどダメだって言われちゃって、それで鮭にしたんだよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 絶句したまま動かないでいる元就に首を傾げ、 塗り杯を差し出す。
「我は酒は飲まぬ」
「知ってるけど」
 間髪いれず返され、むっとして睨み返すとやはり笑顔で受け止められて、たじろいだ。
 この男は苦手だ、と元就は思う。
 見た目とは裏腹に、豊臣のためなら冷酷な策も辞さないところは少し自分に似ている。
 けれど決定的に違うのは、自分は無表情の、彼は笑顔という仮面をつけているところだ。
 そして常に笑みを絶やさぬ方がずっと難しく、ずっとえげつない。
「飲めないわけじゃなくて飲まないんでしょ?知ってるよ、聞いたもの」
「・・・・・・誰に」
「ああ、官兵衛くん」
 ”官兵衛くん”が一瞬誰か分からず考えて、元就は舌打ちした。
 豊臣の使いだと言ってずかずかやってきたあの男。
 一応礼儀として、仕方なく酒を出してやれば遠慮なしに飲み干し、味わっているのか疑問に思うほど手当たり次第飲み尽くしていくので、苛立った元就が最後の一献を奪って喉に流し込んだのである。
 そのくらいで酔うはずもないのだが、官兵衛は元就が酒を飲んだことに驚いたらしく大げさに報告してまわったらしい。
 そしていつの間にか毛利元就はかなりうわばみで、絡み酒で、家来に見られるのが恥ずかしいから自ら酒を禁じている、という話になってしまったようだ。
 ぎりぎりと眉尻を上げながら、楽しそうに話す半兵衛を睨みつける。
 無理に持たされた箸が震えて、これで目玉を突いてやろうかとすら考えた。
「そう怒らないでよ。無理に用意させたのは僕だし、お酒持ってきたのも僕だよ。ごめん」
 ごめん、などと。
 あっさり謝る半兵衛に怒りの行き場を失う。
「それで、相談とは何だ」
「うん実は・・・・・・」
 形の良い眉をぐ、と曲げながら、半兵衛は舐めていた杯を置いた。
「一緒に大阪へ来てほしいんだ」
「断る」
「即答だね」
「当たり前だ」
 何が秘密の相談だ、と舌打ちして箸を叩きつける様に置いた。
 そっと部屋の外からこちらの様子をうかがっていた家臣たちがびくりと体を揺らし一様に顔を青ざめさせる。
「形だけでいいんだ、秀吉に服従するふりだけでいい。登城してくれ」
 各諸大名が臣従の証として大阪へ集まるのだという。
  表立って豊臣の権威を日の本へ知らしめるための召集命令だ。
  そうは言っても、拒否する者も出てくるだろう。また登城したとしても内心何を考えているか分からない。
「君だって大毛利がどのような目で皆から見られているか分かっているはず。今豊臣を敵にまわすべきではないという判断は正しい。それを他の諸大名に知らしめたい。そのためには君が必要なんだ」
 くだらぬ。
 もはや口癖のように唇に乗せる言葉が意識せずにのぼる。
「豊臣に下ったおぼえはない」
 あくまで対等な関係を保つための同盟である。
 そもそも毛利は弱小ながら古い歴史のある名家である。一百姓から成り上がった猿山の大将に振りだけとはいえ臣下の礼などとれるはずもない。
 無礼にもほどがあろう。
「だからこそだ。だからこそ、君を説得しにきたんだよ」
 元就の言うことは正しい。だからこそ、一代にしてのし上がり中国九カ国を束ねるほどまでに大きくなった毛利の国主が参列することに意味があるのだ。
 毛利は豊臣と敵対しない。
 ただそれを皆に理解させるためのくだらぬ茶番に出席しろと言う。
「説得」
「そうだ。脅迫したいわけじゃない。何故なら僕たちと君は対等、なのだろう?」
 言うことを聞かねば中国を攻める、毛利を潰すと脅したところで元就は動かない。
 巨大化した豊臣に正攻法で敵対することはしないだろうが、この戦国の世、戦以上に気を使うのは調略に他ならないのだ。
 そしてその調略の強かさゆえに毛利はここまで大きくなった。それを何よりも危険視しているのは竹中半兵衛その人である。
 敵に回しては最も厄介だ。できることなら、味方につけ、事を荒立たせることなく豊臣の天下を築き守りたい。
「毛利にとって何か益があるのか」
 ふいに元就の口調が和らいだ。
 おや、と思って目を上げると、決して表情は変わってはいないが、彼もまた思案に暮れていただろうことが分かる。
 元就もまた、半兵衛と同じように、その形の良い頭の中でめまぐるしく計算を弾いているのだろう。
 被害を最小限に食い止め、名誉を傷つけられることなく、それでいて安全に事を動かす手段を練っている。
「ただの挨拶程度を皆の前で交わしてくれるだけでいいんだ。同盟相手として、友として、ね」
「友」
 友か。
 ふ、ふふ、と小さく元就が笑った。
 目は笑っていない。ただその単語がひどくおかしいもののように、唇を三日月形に歪めて低く笑う。
 ああ、きっと彼には友と呼べる存在はないのだろう、と半兵衛は思った。
 何もかもを切り捨てる覚悟は半兵衛自身にはあり得ないものだ。
 かつて秀吉は友だった。そこに前田慶次もいたような気がする。
 けれどもはや慶次は秀吉を理解しえない存在として別離したし、秀吉は友ではなく主である。
 彼はまた違う意見なのかもしれないが、秀吉の夢を実現させるためなら半兵衛は過去を捨てることなどたやすいことだと思っている。
 切り捨てられないものはただひとつだけ。
 大事な親友「だった」秀吉の、夢を現実にすることだけだ。
 そう言う意味では半兵衛もまた友と呼べる存在を失ったと言える。
「毛利もまた豊臣の権勢を盾にすることができる。それは君にとって益ではないのかな」
「豊臣の権勢?笑わせるな。それが幾年続くと思っている。かの織田信長はどうなった?たとえ一時的にこの日の本を平定せしめたように見えてもそれはただの幻想ぞ」
 この世から争いはなくならない。それが元就の持論だった。
 だから余計な争いごとに首を突っ込まない。国外がどうなろうと、中国と毛利家が安泰で永遠に続きさえすればそれで良い。
「ううん・・・それじゃあ、」
 こうしよう、と半兵衛はにこりと笑った。
「瀬戸海と四国の覇権を君に譲るよ」
 

 頭を下げることなど、どうということではない。
 中国を統一するまでは、幾度もそういった屈辱とも思えることは全て経験してきた。
 ときにはおかしくもない席で笑みを浮かべ。
 ときには身分ばかりが高い阿呆な人間に平伏し。
 ときには体を暴かれることすら、当たり前だった。
 だから今更といえば今更である。
 それでも元就は、日の本のそこここから参じた諸大名の前で秀吉に頭を下げることをよしとしなかった。
 あらかじめ秀吉も半兵衛に言い含められていたのだろう。おそらく、そうとう無理して説得した結果なんとか大阪まで呼びつけたのだ、くらいのことを言ったかもしれない。
 ずらりと並ぶ大名たちの上座、一段高いところに座る秀吉の前まで進み出た元就は、しゃんと背筋を伸ばし、真正面から秀吉を見つめていた。
 具足を外した狩衣姿の元就は普段にもまして小柄だと言うのに、その存在感は秀吉と向き合っていても見劣りすることがない。
 秀麗な顔立ちは目を閉じるか、にこりと微笑めば華のように艶やかだろうに、その鋭く冷たい目が結界のように彼自身を包み込み、何人たりともそばに寄れぬ硝子細工のようだ。
 決して平伏などするか、というような元就の様子と、それを黙って見つめる秀吉の間に言い知れぬ緊張感が漂う。
 彼らを見守る大名たちは、みな気まずそうに咳払いをしたり目を泳がせたりしている。
 中でもどっかりとあぐらをかいて退屈そうにしていた伊達政宗などはさも嫌々来ました、と行った風体だったが、ぴりぴりしたこの空気がおもしろくなったのかにやにやしながら見守っている。騒ぎのひとつでも起きればよいと思っているのかもしれない。
 一方、末席のほうでこれもまたどうでもよさそうに座っているのは長曾我部元親だ。袴を窮屈そうに身につけ一応は身支度を整えているが、すぐにでも襟元をくつろげたい様子でそわそわしていた。
 あの毛利が。果たして秀吉に平伏するのかと思うと言い知れぬ居た堪れなさに襲われる。
 双方が名乗り、白々しい挨拶を交わした後、大広間は静寂に包まれた。
 長い長い沈黙の後、先に口を開いたのは秀吉の方だった。
 億劫そうにひとことだけ、大義であった、と述べるにとどまる。
 元就はわずかに目を伏せた後、ちらりと秀吉の後ろに控える半兵衛を見た。
 豊臣の軍師は、いつものように柔らかな笑みを浮かべたまま、僅かに目を細めてみせた。
 分かってる、というように一瞬だけ笑みを濃くする。
 そうだろうとも。
 あの、疎ましき長曾我部が見ている前で、誰かに傅く様など見られたいはずもない。
 そんな、子供っぽいとさえ言える元就の胸中を察して半兵衛は声をたてて笑いたいのを我慢した。

 
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 突然、病に伏せていたはずの半兵衛が厳島へ来る、などと言うので驚いた元就だったが、久方ぶりに顔を合わせれば彼の病は相当進行していたようで、青白く血の気のなさが日輪の下でさらに濃く伺えた。
 一度は平定したかのように見える豊臣の世だが、それが仮初めのものであることくらい誰でも勘付いていた。
 刻一刻と、再び大きな争いの兆しが見える。
 心中穏やかでないだろうはずの半兵衛だったが、桟橋から赤い鳥居を眺める顔は顔色の悪さを抜かせばひどく穏やかだ。
 不思議な夢とは何なのか、元就はふいにそれを尋ねてみたくなった。
 死期の近い者が見るのはどのような夢なのか。
 穏やかで幸せなものだと彼は言う。
 元就にとってそのような世界はいまだ訪れない。
「もうかなり前の話しだけれどね。君に約束しただろう。瀬戸海の覇権と四国を譲るよって」
「そうであったな」
「ごめんね、まだ果たせなくて」
 申し訳なさそうな顔は、果たして本心からのものだろうか。
 ふん、と鼻を鳴らしてそっぽむくと、半兵衛は小さく笑った。
「四国が表向きは豊臣に喧嘩を売らない限りは攻め込む理由がなくて、というのは建前さ。約束事を先延ばしにすればするほど、もう少しだけ時間があるような気がして。でももう僕が仲立ちする必要もないほどに君はうまく立ち回っている」
 ひっそりと息を殺し、目立たぬよう、豊臣に逆らわぬよう、一応は恭順の意を示しながら国力をためていく。
 やがて毛利の力は甲斐や越後、徳川と並ぶほどになるだろう。超えることもあるかもしれぬ。秀吉はまだそれに気づいていない。
 それほどまでに、元就のめくらましは利いていた。ただひとり、半兵衛だけは見抜いていたが。
 だが半兵衛はそれを言わない。彼の持つ焦りは別方向を向いている。
「良いのか」
 疑問に思って問いかける。我を放っておいて良いのかと尋ねる。
 肩が触れるほどに近い距離に立つ半兵衛は、僅かに低い位置にある切れ長の目を見てすぐに鳥居に視線を移した。
「僕だって、永遠なんてものは信じていないよ」
 それはおのれの最期を悟った者の厭世的なものの見方だった。元就のそれと近いようで少し違う。
「君は中国と毛利家のためだっていつも言う。その他のことなんかどうでもいいってね。けれどそうはさせないよ」
 半兵衛はくるりと身を翻して鳥居を背にした。そのまま社の方へ歩きながら紡ぐ。
「きっと君はこれから大きな戦の中に身を投じることになるだろう。そしてまた繰り返す。同じことを思う。この世から戦はなくならない、ああもう嫌だ、面倒くさい、てね」
「何が言いたいのだ貴様は」
 怒るよりも呆れて肩をすくめる。
 半兵衛は振り返って、悪戯っぽい表情でその色の薄い唇を指で撫でた。
「覚えておいてほしい。君が戦に明け暮れ、心底疲れきって何もかも投げ出したいと思った時、僕は幸せで暖かい夢を見ているんだ。こういうとき何て言うんだっけ、ああそうだ」

 ざまあみろ。

 先に楽になってごめんね。
 半兵衛の、精一杯の嫌がらせじみた文句は、いつまでも元就の脳裏に焼き付いて、最後まで離れなかった。