たとえばサンデー




 
 例えば、だ。
 もし、自分があのまま胡散臭いザビ―教とやらに居座っていたとしたら、今頃どうなっていただろうか。
 己の采配でザビ―教が九州をはじめ中国(これは自分の国なので数に入れなくても良いが)四国を制圧、ザビ―王国をうちたて、日ノ本から独立。他国からの侵略を受けてもおそらく外つ海のどこかにあるザビ―教本部(とやらに今ザビ―は逃げ帰っているらしい)から援軍を出してもらってしのぎ、そこで幹部として生きる。そんなことが可能だっただろうか。
 不可能ではないはずだ。自分なら。と、毛利は思う。
 かの地にいた頃のことは思い出したくもないし覚えていないことも多いが、僅かに残った心の奥底の記憶は意外と穏やかなものであったように思う。
 自分の部下はともかくザビ―教の信者らは頭は悪いが忠実に仕えてくるしどこぞの海賊のように下品でもない。ちょっとばかり奇妙で挙動不審でお金大好きでくねくねしていて気持ち悪いが裸で踊ったり酒を飲んで大騒ぎしたあげく庭先でごろ寝したりもしない。決まった時間に起床し決まった時間に祈りをささげ決まった時間に布教活動を行い決まった時間に食事をし決まった時間に就寝する。まさに理想の生活だったと言える。
 やるべき仕事は多かったが、どれも目新しく、そしてほとんど機能していなかったに等しいいわゆるこの国での布教活動における規律や組織での計画などを一から作り上げて行くのも不本意ながら楽しかったように思う。
 寝台から上半身を起こし、ぼんやりしたまま毛利は考える。
 あのままあそこから連れ出されることなく、ザビ―教の幹部として生きて行くことにしたとして、果たしてこの男はどうしただろうか。
 この男は、とすぐ隣りを睨みつけると、銀色の髪と白い肌が向こうを向いたまま気持ちよさそうに眠っている。すっかり肌蹴た夜着をひっつかんで揺さぶってやろうかとも考えたがそれもなんだか面倒だった。
 この男はことごとく、毛利が大事にしているものを土足で踏み荒らし、放り投げ、割って入ってはその大きく長い腕で抱き込んでくる。それが鬱陶しくもありいつか殺してやろうと思いながらも甘んじて身を任せてみたりもする。
 一時期はひどく悩んだものだ。
 だが、しばらく悶々と考えた後、やがて毛利は考えるのを放棄してしまった。
 なぜなら、長曾我部元親という男は国のことはともかく自分のことに関しては考える前に行動を起こしてしまうからだ。これでは先回りして防衛する術がない。これが戦術や戦略といったものであれば毛利の方が当然上手だろう。先の先を読んで手を打つことは得意だ。だが後先考えずに行動する人間の先を読むのは無理である。馬鹿のやることに理由などないのだ。なぜなら己の利がどうとか、損益がどうとかは二の次で、「だってそうしたかったから」といったまったくもって理解不能な答えが返ってくるからだ。
 昨夜だってそうだ。
 戦の気配は今は落ち着いているとは言うものの、小さな反乱分子はそこらじゅうに火種をつけまわっているし内政のことも考えなければならない。天候ひとつで今年の冬領民たちが飢えなくてもよいかどうかが左右されるのに国主が安穏と遊び暮らすわけにもいかないからだ。
 だと言うのに。のこのこやってきては好き勝手し放題だ。それを全力で拒めぬ自分が疎ましい。
「なんだよこれまだこんなの持ってたのか」
 と、こちらを振り向きもしない毛利に向かって侵入者が何かを持ち上げ振る仕草をしてみせた。二度三度と声をかけてくるので苛々しながら振り向くと、長曾我部が何やら黒い分厚い書物を持ってぶんぶん振りまわしている。
「・・・なんだそれは」
「何だって。この辺にあったんだけどよ」
 この辺、と、部屋の片隅に積まれた書物を目でさして、再びこれはなんだと尋ねてくる。
「知らぬ。題字を読めばよかろう」
「これ異国の文字だぜ」
「異国の?」
 そんなもの持っていただろうか。
 異国のものとなれば自分より長曾我部の方が物知りだろうと顔を上げるが、長曾我部は重そうにそれをぱらぱらとめくりながら眉間にしわを刻んでいる。
「わかんねえなあ。しかしこの表紙の題字すげえな、金だぞ金。しかも刺繍じゃねえ」
「そんな上物があったか」
 記憶にない、と首を傾げる毛利に歩み寄り、傍らに座り込んで長曾我部がそれを差し出してきた。
「”Bible”・・・?」
 瞬間、ひどく苦いものがこみあげ、ずきずきとこめかみが痛みだす。
「それを捨てろ」
「どうした?」
「あの、南蛮の宗教のものだ。なぜ・・・」
「げっ。なんで後生大事に持ってんだよ!」
「知らぬわ!」
 怒鳴りつけて顔を歪め吐き捨てる。どうしようもなく頭が痛い。
 途端に長曾我部はおそろしげに書物を放り投げ、壁にがつんとあたって跳ね返った哀れなそれはぽとりと床に落ちた。
 それを合図に頭痛がすっと引いていく。
「あんたあれ読んでたのか?」
「・・・知らぬ」
「いや思い出した、今思い出した。あんた確かにあれ読んでたぞ。目で文字追っていた。読んでたんじゃないのか?」
「異国の文字など読めぬ」
「だよなあ」
 不思議だよな。あのときは確かに、あれを読み上げ誇らしげに説いていたというのに。
「洗脳されたら異国の文字も読めるようになるのか?」
「そんな便利な洗脳があるわけなかろう。もう良い、あのときのことは忘れろ」
「いやそりゃ忘れたいほど愉快な光景だったけどよ。だってあんた、あのカッパハゲに様づけで呼んだりしてたんだぜ」
「忘れろと言うたであろう!」
 ぎりりと眦を釣り上げて睨むと、長曾我部がにやにや笑いながら顔を寄せてきた。
 嫌そうにそっぽ向くが形の良い頤を捕らわれて呻く。
「貴様ッ」
「なあ、あんな感じで呼んでみてくれよ。元親様って」
「死ね!」
 がごっ。
 思い切り拳で頬を殴られ、寸でのところで食いしばった歯がぎっと音を鳴らした。
「いってええ!」
「出てゆけ!そもそも入ってよいなどと許可は出しておらぬ!城から出ろ!否、我が領内から即刻立ち去るがよい鬼めが!」



 ザビ―教団でのあの滑稽な一幕をその目で目撃し、中国に残っていた毛利家の家臣らの必死の願いで元就を連れ帰り、ようやく落ち着いた頃。
 どうしても気になることがあって長曾我部は異国の辞書を入手していた。
「あい、らぶ、ゆう。あい?愛か?うーん」
 あの時。
 みずからをサンデーとか名乗っていた愉快な毛利元就は、あのカッパハゲのでかい肖像画を見上げながら片手に黒い分厚い書物を広げ、呟いていたのだ。
 振り向いて驚くサンデーとやらに、とっさにそりゃ何の呪文だ、と問いかけたがはっきりとした答えは返ってこなかった。すぐに信者らとの交戦になったからである。
 だが確かに、愛がどうとかぶつぶつ言っていた。その表情は恍惚としていたのか、振り向いた瞬間の彼の顔はとろけるように甘く、そして美しかったのだ。
(・・・ように、思う。目の錯覚でなければ)
 そしてその呪文が何なのか気になって仕方なくなったのだった。
「なんだこりゃ。愛してる?ふうん。アイが自分。ラブが愛。ユウがあなた。えっあいつあのカッパハゲの肖像画に告白してたわけ?」
 なにそれうらやましい。
 たまに殺し合いの喧嘩を繰り広げつつ同盟を結んだり解消したり、に海を渡って褥を共にしてみたり、第三者から見れば奇妙すぎる関係を続けていたふたりだったが、長曾我部はこれまで一度だって毛利に愛の言葉を囁かれた覚えなどない。むしろ口をついて出るのは悪口雑言ばかりだ。指摘すると標準装備なのだと言って懐から悪口雑言の書とやらを取り出して見せたりしたか。なんだそれは。
 国主である毛利が長曾我部に対し様づけする理由もなければそんなことをする彼を想像するのも難しい。
 それをいとも簡単に、あのカッパハゲに対しやってのけていたのだから洗脳とは恐ろしいものである。




「つまりよ、悔しいって話だろ。別にあんたにサンデーとやらに戻ってほしいなんて言ってねえ。言ってねえけどよ、たまに俺に優しくしてくれたっていいじゃねえか。様づけだとか愛がどうとか、俺があんたを洗脳してやれば言ってくれるのか?なあ」
「くだらぬ戯言だ」
 心底くだらなさそうに鼻を鳴らして、切れた唇の端から流れる血を指で乱暴に拭ってやる。その行為にでれっと嬉しそうな顔をする長曾我部を馬鹿にしたように嘲笑してから、毛利は挑発するように、汚れた指を口に含んで舐めた。ごくり、と唾を飲み込む音がする。本当にちょろい男だ、と思う。
「貴様は機を逃したのだ。あのまま我を連れ帰らず、貴様もあの宗教に洗脳されたと見せかけ共にあれば良かったではないか。そうすればいつか我の心も貴様に向いたやも知れぬぞ」
「いやそれはあり得ない」
「そうか」
 あっさりうなずいて、のしかかってくる重い体をあえて受け止める。
「良いか、我があのときのような言葉を”貴様に対して”口にするとは思うな。期待するでないわ」
 無遠慮に布の間から侵入してくるごつごつとした手を追いながら、必死な様子の男を見て笑う。
「すぐに堕ちますよザビ―様」
 口の中で呟いた声は、荒い息と濡れた空気の中で融解して散っていった。