暗い緑色をした海を見下ろしながら元親はぼんやりと思う。
いつでも同じ表情。いつでも同じ声音。いつでも同じ目。
いつでも同じ美しいかの男。
ようやく嵐が静まった朝の波は穏やかで、多少高くはあるけれど心地よい揺れに瞼が重くなってくる。
いつでも同じ。
自分も、おそらくあの男も。
何とか口添えをしてもらえないか、とダメ元で隆元あたりに頼んでみよう、といまいち頼りない決意をしながら、家康は案内された宴席を抜け出して冷たい廊下をひとり歩いていた。すっかり日の暮れた厳島の境内には橙色の灯が計算され尽くしたような間隔でゆらゆらと揺れている。確かにそこここに人の気配はするものの、ひどく静かだ。空気も冷え切っていて、すぐさま酔いはさめていく。波のざざざ、という音が心地よい。あの男は日輪を愛しているけれど、こうして群青色に染まり、波の音だけが響く夜もきっと好ましく思っているに違いない。そう確信するほどに。
もう少し近くで海を見よう、と能舞台へと足を進めていると、ぼんやりと白いものが浮かび上がっているのに気づいてぎょっとした。
まさか神聖な場所で幽霊などと遭遇するはずがあるまい。気を取り直して近くへ寄って行く。おぼろげだった白い影は少しずつ人の形を作り出し、近づいて見ると何のことはない、緋袴姿の女が扇を手に神楽舞の練習をしているのであった。床につくほどの長い黒髪をひとつに垂らし、ああでもないこうでもないと扇をくるくるまわしては首を傾げている。背格好は普通だが、月明かりに照らされた顔は愛らしく、十代のようにも二十代のようにも見えた。思わず足を踏み出した家康だったが、どう声をかけていいか分からずそっとその場を離れることにする。邪魔をしないほうが良いだろう。
あの女性は誰だろうか。毛利縁のものか、巫女か。
(厳島に巫女がいただろうか?)
だが人手がいるならば、神官の身内がそれを手伝うこともあるだろう。
潮の香りをふんだんに胸に吸い込んで、そろそろ戻った方が良いだろう、ときびすを返したところで、宴席にあてがわれた部屋の方角からひとりの男が足早に近づいてくるのが見えて立ち止まった。
「隆元殿」
「家康様こちらにおいででしたか。急にお姿が見えなくなったものですから」
「すまない、少し風に当たりたくなって」
「ならば良いのですが」
お加減でも悪いのか、と心配そうに顔をのぞきこんでくるので、笑って首を振った。
年は同じくらいだろうか。毛利元就の嫡男にしてはあまり似ていない。温和な物腰に柔らかい表情。少々神経質なところも見て取れるが、元就とは違った意味で良い主君なのだろう、家臣からも慕われているようだった。
彼は長く人質の身にあったというから、そのあたりも妙な親近感がわく。彼の方はそんなことはないだろうが。
「お父上のご機嫌はどうかな」
あえて軽い口調で尋ねるが、隆元はひどく真面目な顔で申し訳なさそうに首をすくめた。
「申し訳ございません。父は酒の席はお嫌いなのです」
「いや、それは知っている。明日、またわしと話をしてくれるだろうか?」
「ご命令とあれば」
「いやそうではなくて・・・」
わざと言っている様子ではない。真面目な隆元は本気で、それは天下人としての命令なのだろうかと聞いているのである。融通が利かないというかずれていると言うか。必要以上にびくびくしないでほしい、と家康は思うのだが、それは酷というものだろう。自分の指先ひとつ、鶴の一声で毛利家の取り潰しができると彼は思っている。それは正解だ。ただし、できることとやっていいこと、そしてやらなくてはならないことはまた別問題である。それを知っているからこそ元就は悠然と構えているのだろうし、堂々と逆らいもする。
もうこの世において、そんな真似をするのは元就くらいではないだろうか。
「隆元殿。わしはどうしても友を助けたいのだ」
「友、とおっしゃいますと・・・・・・」
言いづらそうに口ごもる。毛利家にとって長曾我部という名は文字通り鬼門なのだろう。
「おまえの父君が老いないのは宝具の呪いではない、と聞いた。だが元親が何故そうなったのか・・・あの手鏡が原因ならまずそれを取り返さなくてはならない」
「おそれながら。取り返す協力を毛利にせよとおっしゃるのですか?」
「いや、とりあえず、その手鏡がこの厳島から持ち出されたものであることの確認と、本当に不老の呪いがかかっているのならそれを解く方法が知りたいのだ」
「不老は呪いですか」
「わしはそう思う」
はっきりと言い切った家康に、隆元は驚いて、わずかに目を見開いた。
「不老不死は人としての悲願ではありませぬか?」
「そう思うか?」
「・・・・・・・・」
改めて正面から問われると、戸惑う。
隆元は脳裏に偉大な父の姿を思い浮かべる。
自分が幼いころから変わらぬ美しい姿。それを呪いと呼ぶにはあまりにも神々しく、似つかわしくない。しかし元就も家康も、老いないということは呪いだと言う。
父は呪われているのか?
「ああ、そう言えば隆元殿。先ほど能舞台でおなごが舞の練習をしていたぞ」
「・・・・・・おなご?」
はて、と首を傾げる。世話役の女はいくらかいるが、舞を踊るようなものはいないはずだ。
「どういう女でしたか?」
「ここの巫女なのだろう」
当然のように言い放つ家康に違和感をおぼえる。
(私の知らない女が厳島に出入りしている?)
「そろそろ戻ろう。みな心配しているかもしれない」
明日もう一度元就の機嫌を伺ってみよう、とことさら明るく言う家康に、隆元はうなずくしかなかった。
彼についていこうとして、どうしても気になってひとり能舞台の様子を見に行くことにした。ついでに宝物殿の記録も調べてこよう。隆景に探させているのなら、彼に聞くのもいいだろう。今頃になって、はじめから自分でやっておけばよかった行動を思いつく自分が情けなかった。まるで頭がまわっていない。
これだから、いつまでも父に頼ることになるのだ。
能舞台に、ぼんやりとした灯りがうごめいている。
奇跡というものが存在するのなら、その光景を目にしたことがある。
人は死ぬ直前、走馬灯が脳裏によぎるのだと言う。ならば厳島での死闘の後、ほぼ同時に相討ちとなった瞬間倒れ伏す自分が見たのは、その走馬灯なのだろうか。
目の前いっぱいに広がる真っ白な世界。海上に美しくそびえたつ赤い鳥居だけが色を放ち、あとはひたすら白だ。己の具足も、踏みしめた床も、血の色さえもが雪のようで、冷たく硬い地面に頭をうちつけたはずなのに何の痛みも感じず、穏やかな、暖かい風と潮の香りだけが元就を優しく抱きとめていた。
ぐるぐると時間が巻き戻って行く。石田軍壊滅の予測をたてて西軍につくと決めた朝。泥と雨にうたれるばかりの戦場。大谷からの密使。耐え忍んだ豊臣全盛期。織田の滅亡、対岸からやってくる鬼。新たな家族を得て日輪に感謝を捧げた日、毛利家を継いだ夜。実弟を手にかけた暗い雨の日。城を追い出されひとり復讐を誓った粗末な小屋の藁の感触、兄と父の死、それから、、、
全てが白に。
死ぬのか、と尋ねる声は何故か自分のものではなかったように思う。
死にたくないか、と言っていたのかもしれない。記憶は曖昧で、ただとっくの昔に忘れ去った優しい義母の声に似ていた。死ぬまで元就を見捨てなかった、血の繋がらない家族だった。愛していたと思う。彼女がいなければきっと命はなかっただろう。
「それが宿命なら」
そう答えた。
ここで死ぬさだめであれば、抗う理由はなく、抗っても無駄である。
血に濡れた手で極楽浄土へ行けるなどと思ってはいない。ただ死ねばそれまでだ。死んだ後のことまで考えて生きるほど、戦国の世に立つ武将に、国主に余裕などない。
それでもちらりと胸によぎるのは微かな未練だった。
毛利家は今後どうなるのか。厳島は。安芸の国は。家族、というものにそれほど執着はないけれど、血縁は毛利の家であり、子孫となる。それを絶やすわけにはいかない。隆元は無事だろうか。
「ずっと一緒にいましょうか」
女の声が響く。ゆらゆらと波にたゆたう。元就は真っ白な世界の中で必死に目を凝らして、声の主を探した。
「何者か」
「いつも一緒にいた」
「知らぬ」
妻ではないし、下女の声などいちいち覚えてもいない。
女は笑ったようだった。
「私の眷族になる。人であって人でない。厳島という私を守り、祈る、守護者になる。いつも孤独なら、何も寂しくない」
孤独、という言葉にびくりとする。
ひとりで良い、と思っていた。ひとりぼっちだ、などと詰られた時もあった。これからもひとりなのだと突き付けられた。けれど、実は元就は、そうではないことを知っていた。
「戦が終わるのならば、もう少し愛されてもいい。もう少し愛してみては?いつかあなたの前に、似て非なる者が現れるかもしれない。そうしたら、ふたりで外へ出て行ってもいいのよ」
ああ、何を言っているのかさっぱり理解できぬ。
目を覚ますと横にしていた顔が柔らかなものに乗せられていて、元就はぎょっとして体を起こした。ちかちかと奇妙な模様がまぶたの裏に浮き出てはじんと目玉が痺れたように痛い。一度ぎゅっと目をつむってから再び開けると、すでに朝の気配が近づいていた。
「夢を見ていたの?眩しい、眩しいって寝言を呟いていた」
「そなたのせいであろう」
振り返るとやけに古めかしい、貴族のような格好の女がくすくす笑っている。
「教えてあげればいいのに。手鏡は厳島の宝物で、呪いを解く方法はひとつしかないって」
むっとしたように、元就は跳ねた髪を手で押さえつけた。
「盗人を助ける必要などない」
「自分と同じでいてほしいから?いつか鬼はここへやってくる。あなたが自分と同じように老いない体だと知っているから、浚いに来るかもしれない」
「何故だ?」
「それを聞くの」
「あれは敵ぞ。互いに殺し合いをした。決着はつかなんだが。我を殺しに来るならば分かるが浚いに来るとは何だ」
「肝心なところだけ考えるのを放棄するのね」
これだけ遠くに離れているだろう、鬼の考えが、私にも分かるのに、と女神は言う。
呪いを解く方法を知っているとすれば、元就様だけだろう、と弟は言った。
「やはりそうか・・・。父上のご機嫌は直っただろうか」
「兄上は鬼の呪いを解いてやることに賛成なのですね?」
それは人ならざる身が人に戻ることを意味する。
「おまえは違うのか?」
不思議そうに聞く隆元に、隆景は元就によく似た顔立ちで僅かにうつむいた。
「しかしこのままでは父上はいずれひとりぼっちですよ」
「・・・・・・それは、我々がいつかは老いて死に絶えるからか」
「それに父上はきっと鬼がやってくるのを知っている」
「知っている?」
やけに確信を持って言ってのけるものだ、と怪訝に思った。
「だから厳島からお出にならないのでしょう。父上ともあろうお方が、徳川の監視の目をくぐれぬとお思いか?」
「・・・・・・それは、どうだろうか」
「兄上は父上の力量をまだ見くびっておられる」
隆景の口調に嫌みはない。ただ本心を述べている、ただそれだけのようだ。だから隆元も怒りを感じない。自分の無能さや頼りなさは誰よりも知っている。
「さて、鬼を味方につけるか、徳川家康の友情とやらのために父上の意に沿わぬ真似事をするか。結論はひとつしかないではありませんか」
二者択一のようでいて、はじめから選ぶ答えは決まっているようだ。
「隆景が?」
無表情のまま問う元就に、隆元は平伏していた体を起こすとうなずいた。
「はい。御心配には及びませぬ。単なる海賊討伐の船団を指揮するだけのこと」
「否、心配などはしておらぬが。そうか」
何か言いたそうに細めた目を、隆元はどうにか堪えて正面から受け止める。しばらく無言で見つめ合い、元就は仕方なさそうに小さく嘆息した。
「まあ良い、それで徳川はいかにしておる」
「はい、呪いを解く方法はこちらで文献をひもとくゆえ、とりあえずは手鏡を奪い返すための算段を練るよう進言致しました」
「ふん」
鼻で笑って、茶番ぞ、と呟くのを聞こえぬふりをした。
「雑賀衆の力を借りるようです。そろそろ出立の時間かと。お見送りなさいますか?」
「誰が?我がか?」
「・・・・・・いえ、失礼つかまつりました」
わざとらしく聞き返す元就の、機嫌がほんの少し下降したのを敏感に察知して頭を下げる。では、と立ち上がったところで、失礼する、と許可を求める声と同時に部屋の扉が開かれた。まるで声をかける意味がない。
「毛利殿」
「無礼な、と言いたいところだが大目に見てやろう。準備が済んだのであれば去るが良い」
ひらりと手をぞんざいに振る元就に歩み寄り、家康はにこにこ笑いながら、有無を言わせぬ口調で彼の細い手をとった。
「一緒に来てほしい」
「・・・・・・・何だと?」
険しい目でじろりと睨んだ。隆元は予想外の状況におろおろするばかりだ。誰か止めてほしい、と思ったが、真っ先に激高して止めにかかるだろうすぐ下の弟も、冷ややかに制止するだろうその下の弟もここにはいない。重臣たちは元就をおそれながらも天下人たる家康を止められるはずがない。
「貴様、戯言も大概にしろ。なにゆえ我がわざわざ出向かねばならぬ」
「わしは元親に会いたいのだ」
「ならば探せば良いではないか」
「いや、仮に見つけたとしてもあいつは江戸へ来てくれないだろう。だがあなたがいると知れば会いに来てくれる可能性が高い。否、必ずきてくれる」
「要は人質というわけか。だがやつめの容姿が変わらぬことを貴様の配下たちはおそれておるのであろう?ならば我もまた同じ事。人目に晒されるのは好かぬ。それとも嫌がらせのつもりか」
何故、元親が元就に会いに来るなどと思うのか。
何故、誰もかれもが理解不能なことを語るのか。
苛立たしげに掴まれた手を離そうと腕を引くが、たくましい腕にがっちり捕えられて身動きができない。さっさと誰か助けろ、と殺意に似た怒りを込めて周囲を見渡すが、隆元をはじめとした毛利の連中は戸惑うばかりだ。
(役立たずどもめが)
胸中で知る限りの罵詈雑言を吐いてから家康の返事を待つ。
これが家康の、元就へ対する子供じみた仕返しだと言うのならば相応の対処を考えねばならない。江戸へ連れて行き軟禁状態にするつもりかと誰もが緊張した面持ちでふたりを眺めやる。しかし家康ははっとしたように手を離すと、困ったな、と苦笑して頭をかいた。その仕草は昔の、若かりし頃の癖そのままで、何も変わらない。
「大丈夫だ、毛利殿だと分からないよう手配する。屋敷の中ではわしのみが立ち入ることができる範囲内で自由にしてくれて構わない。うるさい年寄りどもも寄り付かない大事な一角が確保されているんだ。元親も、江戸で過ごすときはそこに寝泊まりしていたんだ」
下手に騒ぎになってしまったから、もうそこにいれば良いというわけにもいかなくなったのだ、と家康は言った。
「我を鬼を呼び寄せる餌とするか」
「言い方は悪いが、そうだ。その程度のことはいいだろう?そうでもしないと元親はわしに会いに来てくれない」
元親元親と、名を連呼する家康を元就は心底軽蔑するような目で見た。
馬鹿馬鹿しい、と思う。
「我が江戸にいるなどと鬼は知るまい」
「いいや、必ず来る。あなたに別れを告げに」
「・・・・・・・別れ」
「手鏡を奪い返し呪いを解く。そうすれば元親の不老の呪いは解かれ、普通の人としての時間がまた進み始める」
切ないような、それでいてどこか誇らしげな顔で、家康は元就を見た。
「そうすれば、毛利殿、あなたと元親は生きる時間がずれていく。あいつは老いてあなたは若く美しいままだ」
「・・・・・・・・・」
鬼は人になり、人は人ならざる神の眷族と永遠を共にすることはできない。
家康が、元就の老いぬ理由を知ったわけではない。けれど元就は呪われたわけではなく、元親とは違う理由で若さを保ったままだと本人の口から聞いたのだから、元就が人であって人ならざる身であることを察知したのだろう。
そして我々とは違う時間を生きる者なのだと。
だから別れを、と。
当たり前のことを当たり前のように、残酷に告げる。
「一緒に来てほしい。決して不自由はさせない。不快な思いもさせない。徳川が接収した厳島の宝具の取り扱いについて助言をするために江戸へわざわざ来てくれた。わしが呼び寄せ歓迎しているのだと、そういうことにする」
誰にも文句は言わせない、と強い目が言う。
(だがそれは我のためではないではないか)
体の芯が、臓腑がひやりと冷たくなっていくのを元就は感じた。
騙され自分を殺そうとした友と会うため。
そしてその友とまた同じ時間を生き、杯を交わすために何でもやるのだとそう言う。
「貴様は相変わらずだ。結局かつての戦のときと同じよ。私情とそうでないものとを一緒にすれば混ざり合うとでも思っているのか」
「大事なものはなにひとつ失いたくないだけだ。そのためならわしはどんな我が侭でも通す。そのために天下を手にしたのだから」
まだ安芸から連絡はこないのか、と僅かに焦ったような声で尋ねる家康に、彼の忠実な部下はさらに頭を低くした。
「幾度使者を送っても、まだ時間がかかるとの返事。どれだけの文献を紐解いているのかと尋ねても、大昔の書ゆえ解読に時間がかかっているようです」
「そうか」
嘆息して、他に誰もいない廊下をふたりひたひたと歩く。続く先は完全な私的空間であり、よほど気心の知れた配下しか立ち入りを許さなかった。奥屋敷との境には見張りの兵がふたり、深々と頭を下げて天下人を通す。
「元就殿はどうしている?」
「は、茶室に」
「・・・・・ふうん」
茶室か、と家康は近習に目配せして下がらせた後庭へと出た。
自分のためだけに作らせた館、自分のためだけの茶室。そこに人を招いたのはこれまでにふたりだけだ。元親は茶の湯なんて、などと言いながらも、常時の振る舞いからは想像できないほど礼儀正しく茶をたてていた。嫌々教え込まれたのだと眉間に皺をよせながら、小さく切り取られた菓子をほおばっていたのを覚えている。そういう仕草のひとつひとつを見るたびに、ああ彼はまがりなりにも国主であったのだ、と思い知らされる。気の良い友人、海の男、四国を司る主。みっつの顔を持つ長曾我部元親という男の存在は、家康によって三成に対するものとも違う、ひどく心地よいものだった。彼には嘘をつく必要がなく、正面から何を言っても彼が怒ることはなく、ただ大人びた顔で困ったように笑う。年月が流れ自分だけ中年と言っても良い年にさしかかろうと、変わらぬ姿で元親はただ微笑んでいた。
留まる場所がないのは辛かろう、居心地が悪かろうとこの館を提供し、ほとんど江戸を離れることの叶わぬ家康の代わりに国の外の事や海での出来事を尽きることなく話してくれた。いつまでたっても弟に対するような接し方は、外見年齢が完全に逆転してしまっても変わらなかった。
元親の存在は家康にとって不変のものであったが、元親の時間が止まったままということはこの先必ず別れが来ることを意味していた。それはどうしても我慢ならないと思った。秀吉も、半兵衛も、三成も、大谷も、もう彼のそばにはいない。誰よりも一緒にいた忠勝すら昔のようにいつも隣りにいるというわけにはいかなくなった。彼の背に乗って自由に空を飛ぶことすら叶わない。それは家康自身が選んだ道だった。
いっそ閉じ込めてしまおうか、などと考えたこともあったが、きっと一か所に留まるような男ではないとすぐに打ち消した。ならば、いつでも帰ってこられる場所でありたい。けれど日に日に元親は姿を消したままもう二度と戻らぬのではないかという焦燥感が強くなっていった。彼はいつも別れ際には軽く手を振って、またな、と言い残す。だが最後に彼を見送った時はどうだ。元親は振り返って雄々しく笑んで、じゃあな、と言ったのだ。それを聞いた時家康は悟った。これは今生の別れのつもりではないかと。そして、決して寂しそうな目をしていなかった鬼の隻眼について考える。彼はひとりではない。少なくとも元親自身はそう考えていない。どこか余裕のある表情。何か企むような笑み。そして考える。彼はいつでも、ひとりではないと分かっているのだ。
ああ、わしもそうであったなら。
けれどそれは叶わない。呪いの宝具を手にしたとしても、家康は不老でありたいとは考えないだろう。時代は継承するものだ。太陽のように人々を照らす存在でありたいけれど、人であることをやめて神になろうなどと。幾度となく復活し日の本を混乱させた大六天魔王のようにおそれられる存在になってはならぬ。
元親のように奔放に生きられるのなら、不老であっても誰も自分のことを知らぬ土地へ行って身を隠す事は出来る。では元就はどうか。
(彼は厳島から出ない。毛利家にとって毛利元就という存在はすでに神に等しい)
だからこそ元親は彼を連れて行くか、そばにいようとするだろう、と結論づけた。それが今でなくていい。自分たちを知る者が老いて死に絶えた数十年後であろうと何ら構わないのだ。時間の進む自分たちとは違い、彼らには余りある時があるのだから。
「元就殿」
声をかけてにじり口から声をかける、ふわりと湯気が漂って、茶の芳香が鼻をくすぐった。
「いいだろうか」
「ならぬ、と申したところで貴様は入るのであろう。ならば好きにするがよい」
どうでもよさそうな返事とともに貴人口の障子戸が開けられ、ぬっと真っ白な腕が差し込まれた。
「では失礼する」
質素だが品の良い着物をつけて、元就はひとり誰もいない狭い茶室で湯を沸かしていた。
「何ぞ愚痴でも吐きにきたか」
「いや、そういうわけではないが。それよりあなたこそ文句がたくさんおありだろう」
どうだ、と目を上げれば、華奢な背はぴんと延びたままちらりとこちらを見上げただけで表情はなかった。
「退屈な一年ぞ。だが悪くはない」
「そう、なのか?」
元就が江戸へ連れられてきて四つの季節が巡っていた。軟禁しているわけではないので希望があればいつでも厳島へ戻って用を済ませることを許可していたが、元就は一度も帰りたいとは言わなかった。ただひたすら、この隔離された静かな場所で、茶をたてたり書を読んだり庭を散策したりのんびり暮らしている。何でもないような顔で、どうでもよさそうに。それが家康には理解できなかった。
「元就殿、隆元殿に文を出してはくれないか」
「我が出したところで何とする?」
「だがあちらからあなたが息災かどうかの文は月に一度来るのに、あなたは一度も返事を出していないではないか。これでは変に思われてしまう」
「変に、とは」
「だから・・・・・。わしが、あなたに無体を強いているのでは、とか、そういう」
事実、何度も安芸からは元就の暮らしぶりを事細かに尋ねる慇懃無礼な手紙が山のように来ていた。元就自身の筆跡で返事がないことをひどくいぶかしんでいるのだろう。この館に滞在する限り、元就は自分から動かない限り外からの干渉を一切受けない。密かに処刑されたのでは、などと風聞がたっては非常に困る。
「家族が心配している」
「否、そんなことはあるまい」
「何故そう言い切れる?現に隆元殿からの文が」
「煩わしいだけよ。我は外界と隔てたこの場所が存外気に入っておる。邪魔だてするなと言ってやれ」
「元就殿」
取り付く島のない様子に、家康は何も言い返せず、癇に障るほどに丁寧に差し出された茶を啜った。
困惑した表情を貼りつかせたまま茶室を出て行く家康の背を見つめながら、元就はひっそり唇の端を上げて笑う。
「やつらもよく、やっておるわ」
決して直接言うことのない賛辞を、そっと風に乗せた。
家康のもとに一通の手紙が届いたのは、茶室で元就と話をしてから三日後のことだった。送り主は雑賀孫市。待ちかねた、雑賀衆頭領からの定期便である。三月に一度ほど、進捗の報告が送られてきてはいるがこれまでほとんど何の成果もあげられないことに、家康も、そして孫市自身ももどかしさを感じていた。
雑賀衆は関ヶ原での戦がうやむやのうちに終わり徳川の天下へと時代が移って以降、傭兵集団というよりも情報を主に取り扱う貿易集団へと変化を遂げていた。独自の海運ルートを持ち、外国との交易も行っている。それと同時に国中に錯綜するあらゆる情報を仕入れ、高く売ることを生業としていた。それでも必要とあれば軍事集団としての活動も行っている。また信頼のおける依頼人であれば、小さな仕事も請け負っていた。
元親から手鏡を奪った盗人を捕え、手鏡を取り戻す事を依頼していた家康だったが、ただそれだけのこと、と高をくくっていたのが間違いだったようだ。江戸中に監視網を敷いて犯人を捜したが彼らの網にかかることはなく、すでに江戸の外へと捜索範囲を広げている。しかし目撃証言があるわけでもなく頼りは酔っぱらった元親の証言だけでひどく難儀な失せ物探しであった。
「家康様。いかがされました?」
手紙を読みながら眉間に皺を寄せる家康に、側近が声をかける。
「ううん・・・。少し引っ掛かることがあってな。それより、安芸の方はどうだ?」
「は、毛利家はおとなしくしているようですが」
「不審な動きはないか」
「と、申されますと」
「いや・・・・。元就殿を取り返そうとか、彼が死んだような風聞が流れているとか」
「風聞についてはちらほら、単なるうわさ話の域を出ません。しかし毛利家内部は魔窟のようなもの。すでに隠居したはずの毛利元就の元固い結束は揺るがず、身内の中でもごくごく僅かな間柄にしか本音を漏らそうとはしませぬ。内部に潜り込んだ草ですら内情はまだとらえられておらぬ様子」
「うん」
そうだろうな、とうなずく。毛利家の中枢は得体の知れぬ別世界のようなものだと認識している。元就の嫡男であり現毛利家当主の隆元は素直な男のようだったが、両川と呼ばれる彼の弟たちが問題だ。武の吉川元春、智の小早川隆景。特に隆景については元就の知略を濃く継いでいる。彼は数年前から、水軍を率いて海賊討伐にいそしんでいるようだ。
「一度孫市を呼び寄せよう。手配を頼む」
「はっ」
平伏し、静かに駆けだす配下を見送って、家康は姿勢を崩すと脇息にもたれて嘆息した。
*************************
ひとつ、一度掴みかけた宝具の行方が突発的事態のせいでうやむやになった。
ふたつ、確かに毛利家は呪いを解く方法を文献の解読から行ってはいるようだが、それにしてはのんびりしている。
みっつ、毛利元就が江戸に軟禁されているという噂が西国で流れている。
三つの情報をもたらした孫市を見て、家康はいよいよ顔をしかめた。
対座しているのは雑賀衆をまとめる女頭領、孫市だ。優に三十は超えているだろうがその若々しさも雄々しさも何ら損なっておらず、かえって生き生きとしているように見える。戦う女はいつまでも美しいものなのだろうか、とちらりと思った。
挨拶もそこそこにこれらの話を端的に伝え、じっと家康の反応を待つ。
「・・・・・とりあえず、詳しく聞かせてくれ。宝具の行方は見つかりそうになったのだな?」
「ああ。だが肩すかしをくらった。どうやら邪魔をする者がいるようだな」
「何?」
どういうことだ、と身を乗り出す家康に、孫市はずずずと茶を啜ってから楊枝を刺した羊羹を手に取る。
「ふむ、さすがは良い菓子だ」
元親が酔って失くした手鏡は、事実、通りすがりの泥棒が適当に盗んだ品物の中にあった。元親の証言はあまりに曖昧でふわふわと捕えどころのないものだったが、一点だけ特徴があったという。
「刺青?」
「そうです。こんなふうに、」
と、隆景は筆でさらさらと紙に見聞きした模様を描いていった。それは角の生えた馬のような、竜のような、実に奇妙な獣だった。見たこともなければ聞いたこともない。想像上の妖怪か何かなのだろう、と彼は言った。奇妙な絵をじっと見つめ、隆景のすぐ上の兄が面倒そうな顔をする。
「こいつを探せって言うんだな。けれどこの日の本中捜しまわれっていうのは無茶だ」
「いえ、実は草の者を東へやって調べさせたところ、ここ十年ほど江戸近辺で活動している盗賊集団が皆そろってこの痣のような刺青を体のどこかに彫っているらしいのです。きっとその中に手鏡を盗んだ者がいるはず」
「じゃあ宝具を取り返したも同然じゃないか。すでに監視させているんだろ?」
「はい。しかし雑賀衆に先を越されるわけにはいきませんので、少しばかり罠を張らせてもらいました。その隙に兄上は東へ行って鏡を取り戻して頂きたいのです。もちろん徳川には内緒で」
「・・・・・なあ、徳川や雑賀に知られずに手鏡を奪還して、それでどうなるんだ?」
「どうにも。彼らは見つかるはずのない宝具を探し求め続けるでしょうし、手鏡は元の通り厳島の宝物殿へ納めておしまいですよ」
「分からねえ。鬼にかかった不老の呪いを解きたくない、てのは理解した。だが宝具を徳川に取り返させないことがどんな意味を持つんだ」
首を傾げて足を投げ出す元春に、隆景は彼以上に面倒そうな顔をしてみせた。むっとして弟を叱り飛ばそうとしたが、結局口論では弟に叶わないことは昔から知っている。お互いもういい大人なのだから、いちいち喧嘩をするのもどうか。
「呪いを解く方法を探してはいるが未だ文献の解読が進まない、という理由で待ってもらってるんですよ。いつまでも通用するわけがないでしょう。そろそろ、それなら文献ごと寄こせと言ってくるに決まっている。もしそうなったとして、文献を奪われても肝心の宝具がなければ彼らは長曾我部元親にかけられた呪いを解くことはできないんです」
「ちなみにその文献には、呪いを解く方法は書いてあるのか?」
「ありますよ」
あっさりうなずく隆景に、元春は目を剥いた。
「・・・・・・やっぱりすでに解読は終わってたのか」
「ええ。これまで解読は我々が、手鏡を取り戻すのは徳川が、と役割を分担してきましたが、あれからもう一年、そろそろ徳川も焦れてくる頃です。先に手を打たねばなりません」
隆景はにこりと笑う。それは父、元就が敵を策に陥れたときと同じ冷酷な笑みだ。背筋が凍るような、それでいて美しい。
「雑賀衆はその規模の小ささから、情報収集にはあらゆる情報網を敷いています。そこに潜り込んでさも協力すると言う顔をして手伝って差し上げたんですよ。適当にね。ああ、ちゃんとこちらも実際に全国を歩いて情報のやりとりを生業としている氏子集団を使いましたのでご心配なく。つまり雑賀の動きは筒抜けです」
そろいの刺青をした盗賊集団の偽ものを仕立てあげ、そちらへ雑賀の目をそらす手筈を整えたのだだと言う。
「では兄上、よろしくお願いします」
「おそらく一瞬の迷いが判断を誤った。これは我ら、いや、私の責任だな」
ぱくりと羊羹をひとくちで飲み込んで、孫市は表情を変えずにそう言った。
「得られた証言通り、盗賊集団の隠れ家を襲撃し彼らを捕えた。盗品の山も隠されていたので間違いないと思ったがのだな」
「間違えた、と」
戸惑いの表情を浮かべる家康に、孫市はためらいもなくうなずくのだった。
「統一された模様の刺青、ここ最近江戸近辺に出没している盗賊集団、隠れ家の場所。全ての情報を繋ぎ合わせて向かったが、我らが探していた者たちではなかった。確かに入手した絵の模様に良く似てはいたが、どうやら微妙に別系統だな」
「どういうことだ」
「ひとつの首領から枝分かれした集団だな。だから刺青が似ていたのだろう」
「では似た盗賊たちを探せば」
済む話だ、という家康に、孫市は何かを言いかけて、黙り込んだ。彼女の何か窺うような視線に多少居心地が悪くなって身じろぎする。脇息に持たれるような真似はしない。確かに家康は天下人だが、雑賀衆とは契約を結んだ間柄である。主従というのとは違う、と思っている。それでも命令すれば徳川の名の元に彼らを消滅させることもできるだろう。それだけの権力がある。しかし行使するつもりは無論なかった。個人的な味方をひとつ失くすだけだ。つまり、雑賀孫市とは対等なのだ、と今でも思っている。
(彼女はどうか知らないが)
「先ほど言っただろう。何者かに邪魔をされているのではないか、と」
「あ、ああ」
どこか見透かすように、孫市が目を細めた。内心思っていたことを悟られたのではないかとどきっとする。
「心当たりはないか」
「と、言うと?」
「宝具を取り返すのを快く思わない連中に心当たりはないか、という意味だ」
「・・・・・意味が分からん。何故そんなことを?」
「・・・・・・・・・」
邪魔をされるいわれはない、と心底不思議そうな顔をする家康だったが、まさか、と青ざめる。
「もしかして元親は呪いを解こうとしていない、のか」
それなら辻褄があう、と腕を組む。
もし、元親が不老の呪いを解きたいと思っていないのならば。失くしたというのは嘘で、手鏡は元々彼の知り合いか、盗もうとした盗賊にはいどうぞとあげた可能性はないだろうか。
元親の呪いを解きたい、と願っているのは家康である。だが元親自身の口から、そうしたいと聞いたことはなかった。
もうここにはいられない。
それを聞いた時、彼は悲しんでいるのだと、友である家康ともう会えないだろうことを寂しがってくれているのだと勝手に信じ込んでいた。だがもし、そうでないとしたら?確かに寂しがってくれていたとはいえ、不老のままで良いと思っているのだとしたら。
「わしは、自分の都合で、元親の意に沿わぬことをやっているのだろうか」
もしそうだとしたら、これまでのことは何だったのか。救いたい、いつでも彼の帰る場所でありたいと願っていた自分は浅はかだったのか。
うつむいて顔をてのひらで覆う家康をじっと眺めて、孫市はひとつ大きく息を吐くと颯爽と立ち上がった。
「何の根拠もなしにああでもないこうでもないと悩んでも無駄だ。元親のことはさておくとして、奪われたものを取り返すのが我らの仕事だ。引き続き手鏡の行方を追う」
それだけ言うと振り返りもせずに部屋を出て行く。彼女は優しい言葉をかけることも、否定することも、嘲笑うこともしない。
「ああそうだ、その前に毛利の様子でも見に行ってみるか」
あの偏屈な男は何を考えてここに留まっているのか。
家康に報告したいことは他にもあったが、急を要することではない。今は家康には落ちついて考える時間が必要だと判断した。
家康のところへ案内してくれた彼の側近に元就のことを尋ねると、会ってもよいか当人に聞いてくる、と駆けだしていく。拒否されればどうしようもない、と言外に告げられては苦笑いするしかない。家康の言い張る通り、元就は軟禁されているわけではないようである。おそらく外へ出ないのも自分の意思であり、そこには何らかの意図が隠されているに違いなかった。
彼は元親を呼び寄せるための餌、だと聞いている。そのような言い方は家康はしなかったが、そのつもりで住まわせている。だがもし元就におびきだされるように元親が現れたとして、呪いが解かれたからとそのまま彼に別れを告げる、という確証はない。
(連れて逃げる、という推測を立ててはいないのだろうか)
きっとそんな発想など家康にはないのだろう。そしてそれは驚くことではない。
長曾我部元親と毛利元就が宿敵同士であり憎み合う仲なのは誰もが知るところである。二人の間に誰も知らぬ関係があったとは孫市でさえ思っていない。命をかけてもよいがあの二人に甘い関係などありえぬ。
それでも、と万が一を思う。
【元就を浚って逃げる】ことを、そのまま彼を救いだしてふたりで仲良く生きて行くなどと夢物語ばかりに直結するわけではないのである。
そこを履きちがえてはいけない。
彼らは互いを疎ましく思い、殺し合いをする間柄である。
そこに何の変化もない。これまでも、これからも。
隆景の指示通り、つかわされた盗賊集団の隠れ家の前で、元春は数人の部下たちと身を隠して中の様子をうかがっていた。
「何だってこんなことを」
不機嫌さを隠そうともせず呟く。
「長曾我部の不老の呪いを解かないのは、父上をひとりぼっちにしないためだ、なんて隆景は言いやがる。兄上までもそれに乗った。でもさ、何で長曾我部なんだよ」
まさか自分たちの預かり知らぬ間に、二人の間に口にするも憚れるような関係が出来上がっているのではあるまいな、と一瞬だけ考えて、いやそれはありえないと首を振る。【ありえない】。それは揺るがない事実だ。だから、なおさら、理解できない。
何故、長曾我部元親でなければならないのか。
少し考えれば分かることだ、と隆景は言った。
もう何年、あのふたりを見ているのか、と、心底馬鹿にしたような目で。
「くそっ、知らねえよ」
だったら手鏡を取り返して、自分がその不老の呪いとやらにかかってしまえば、ずっと父のそばにいられるのではないか。それについての隆景の答えは保留、である。
さて、そんな簡単に人は不老という呪いにかかるものなのか。
「元春様」
部下がそっと声をかけてきた。
荒れ放題の寺院は膝丈ほどもある雑草の庭に囲まれ不気味極まりない。破れた障子戸の向こうからゆらゆらと灯りが漏れていて、中に人がいることが確認されている。近隣の村人たちは決して寄りつかないのだと言う。お上に通報しても、賄賂を掴まされてそのまま放置されているらしい。
「役立たずの徳川の世。仮初めの泰平の世だ」
天下人様はこんな山間の小さな集落のことなんて、まるで気にかけていないんだろう、ともごもご不平不満を洩らしつつそっと部下たちに合図する。まずは包囲して出入り口を固め、一気に突入する。簡単な作戦だ。策なんてあったものではない。だが猪突猛進、考えるより行動して武功をたてろ、が元春のいつもの手だ。
「行くぞ」
ひとりぼっちじゃねえか、という元親の言葉は彼自身をも悩ませる結果になっていることを、言われた本人は知らなかった。
一体それがどうしたというのか。もとより日輪の加護の元にあるというのに、それ以外の何も望まぬ。天下を掌握しても良いと思ったのはすべて毛利家のためであり、中国のためである。そのために何を裏切ろうと、味方についた(ように見せかけた)西軍がどうなろうと知ったことではない。むしろ石田軍の瓦解を促進しようとすら考えた。結局風来坊の乱入で計画はあっさりと頓挫してしまったが、それでも大谷が倒れた今となっては石田など脅威ではない。ただ家康を恨むだけの私的感情だけで動く男が軍を操れるはずがなく、徳川の世に傾いた時点で何の手も打てなかった彼には復讐とやらを遂げる力があるわけもなかった。
で、あるならば。目下のところ邪魔者は徳川と、そして目障りな長曾我部である。徳川の権勢は毛利家を脅かす厄介な存在だ。けれどいまのところ毛利の家と中国の地に手出しするそぶりは見えない。消極的黙認といったところだろう。監視の目はあるがよほどのことがない限り毛利の内政に口は出さないようである。
行方をくらませた長曾我部元親だったが、四国は彼以外の優れた家臣たちの手によって政は行われてきた部分が大きい。なので、長曾我部の人間は目障りではあるものの脅威ではなかった。
それでも物足りない、と元就は思う。
自分たちの間には何ら決着がついておらぬ。つける機会を失った。
理解しようともされようとも思わないが、曖昧なままもう数十年が過ぎようとしている。ふたりの間に横たわるのは瀬戸海と遥かな隔たりで、互いに理解することを放棄した元就と元親はすでに宿敵、などと優しい言葉では表現できないほどに捻じれている。それが望んだ結果ならばそうなのだろう。
「理解などできぬ。我を理解できるものなどおらぬ。それで良い」
ひとり呟く元就の背に、人の気配が迫った。
振り返ることなく無視し続けたが、やがて気配はあと一歩のところで立ち止まって、ざり、と地面を踏む音だけがやけに大きく響くのだった。
「久しぶりだな毛利。相変わらずだな」
「雑賀孫市か。貴様も相変わらずと見える」
互いの「相変わらず」という言葉にはそれぞれ違う皮肉がこめられていたが、さらりと流した。
「聞いていると思うが、元親のカラスめが厳島から奪ったあげく盗人にすられた手鏡の件だがな、肩すかしをくらったぞ。せっかく取り戻してやろうとしたのだが」
「そうか。所詮はその程度の実力ということか。雑賀の名も落ちたものだな」
「機嫌が良いようだな毛利。何かいい知らせでもあったか」
ふ、と笑ってそう言うと、ようやく元就は振り返った。
「毛利。徳川は何も気づいていないようだが、私には何となく分かる気がする」
「何をだ」
「おまえが望むもの。おまえが待っている理由。おまえの時が止まった意味」
家康が気づくはずがない。何故なら彼は元親の最も近い友人でありながら、外から彼を見ることをしなかったからだ。
孫市は知らぬことだが、おそらく隆景あたりが気づいたのは最も元就に近い位置にありながら客観的に父という存在を崇拝しているからだ。そう元就は思う。ゆえに、雑賀孫市という女は聡く、不快ではない。
「おそらく元親も同じだろう。それも一種の、そうだな、絆というやつか」
「その言葉を口にするな。反吐が出る」
嫌そうに顔をしかめる元就に笑い返して、孫市は背を向けた。
「引き続き手鏡を探すとは言ったが、どうやら見つからないようだな。おまえが相応の金を払うと言うのであればおまえの望みを叶えるための努力をしてやるが」
「我の望み」
「そうだ」
立ち止まって、高い塀に囲まれ切り取られた真っ青な空を見上げた。
息苦しくはないのだろうか。
ここには潮の香りが届かない。彼の愛する厳島のように、さざなみの音も聞こえない。
「すでに西国ではおまえが江戸に軟禁されているという噂が流れている。その割に毛利家が動く気配はないが。元親はおそらく、ほとぼりが冷めた頃にまた日の本へ戻ってくるだろう。それまで待つかどうかはおまえ次第」
元就の時間は限りない。しかし、湯が沸くのを三年待つような無意味な待ち時間などあるだろうか。
「徳川から契約金の前払い以外を取り損ねたからな。初めから無駄だと分かっていれば引き受けなかった」
「結局は金か」
「昔からそうだ。我らの力を認める者に我らはつく」
「訂正しよう。貴様は長曾我部の味方をしたいだけであろう」
「頭の悪すぎるカラスが哀れすぎてな」
動くか、動かないか。
僅かに振り向いて様子を伺えば、無表情の中に困惑を隠せないでいる元就が突っ立っていて、孫市は少しだけ笑った。
元親を案じるのは家康も同じだ。ただ、彼は彼視点でしか友人を見ていない。
元親の望んでいること、考えていること、やろうとしていること。
そこを見通すには、家康は人が良すぎるのだろう。おまえはこんなはずじゃない、こんなやつだ、と、自分の中の理想と、相手の美しさばかりを信じて。
元就と真逆なのだろうといまさらながらに思う。
人と世界の負の感情ばかりを思う元就と、人は誰でも絆の元に分かりあえると信じている家康。同じ光を力の源とするにはあまりにも違いすぎる。求める相手は同じで、けれど求める方向性が違う。
幸せであれば良いと孫市は投げやりに思う。
その幸せとやらは、しかし誰もがすぐさま思い浮かべるような優しいものだけではないと、家康は気づいているだろうか。
その知らせを運んできたのは、常に傍らにある相棒だった。自由に空を飛びまわり、数日姿を消したかと思えば唐突に舞い戻ってくるのだから、もういちいち心配していてもキリがない、と元親は頭をかいて鳥の頭を撫でる。
「ああ?おまえ何だそれ?」
見れば細い足に見覚えのない小さな紙がぐるりと巻きついていて、きっちりと紐が結ばれている。文だ。ご丁寧に油紙で包んで濡れても平気なように配慮してある。
家康だろうか、とちらりと思ったが、この鳥は江戸になじもうとせず元親が江戸城にいる間はずっと港に停泊している船にいたから、家康と知らない間に友好を結んだとも思えない。
丁寧に外しくるくると開いて中を確認すると、元親は隠されていない方の目を細めて唸り声を上げた。
「いらねぇ世話寄こしやがって・・・」
いくらでも時間があるのだから、と思ったのが間違いだったのだろうか。
いつからか老いないと知った時、即座に脳裏に浮かんだのは暗緑色の戦装束に身を包んだ冷酷な男のことだった。ざわ、と全身に鳥肌がたったあの瞬間をいまだ覚えている。江戸で好奇の目にさらされ、家康に心配された日々をかきけすような衝撃。臓腑を抉るような熱い快感。本気でふるうことのなくなった碇槍の重さを思い出す。
「どうだっていいんだ、不老がどうとか、そんなことは。そこじゃねえ、俺は。俺の望みは!」
たったひとつ。
体内の血が沸騰するような、あの感覚を取り戻して、元親は大海原の真ん中で叫ぶ。
音もなく、背後に人の気配がしたとこに家康はそれほど驚かなかった。何故ならそれはよく知ったもので、ふわりと漂う潮の香りが誰であるかを告げていたからだ。
振り向いたら逃げられそうで、家康は背を向けて座ったまま話しかけた。
「お帰り」
「・・・・・・」
「ずっと待っていた。あれから二度春が来たぞ。おまえはもう庭の桜を見たか?」
「・・・・・・」
「元就殿なら厳島に帰したぞ。結局手鏡は見つからなかった。おまえの呪いを解くことができない」
「・・・・・・」
「わしは、おまえと、おまえたちと同じ時間には生きられないのだな」
「家康」
それはひどく懐かしい声だった。掠れたような、咽喉から絞り出すような低い声音。その中にあるのは涙が出そうなほどの優しさで溢れていて、家康は目を閉じて微笑んだ。
「なあ元親。また戦が起るかもしれないんだ。大阪でな」
「家康・・・・」
「おまえは、来てはくれないのだろうな」
攻める口調ではなかった。それは確信だ。友のために手を貸してくれないのか、という気持ちはこれっぽっちもなかった。元親も、そして元就も、戦線を引いた過去の武人なのだ。彼らは己が領地を守るため戦うことはするだろう。また彼らの後継者が力を貸してくれることもあるだろう。それでも、ふたりが、かつて敵対したあのふたりが実際に武器を手に駆けつけてくれるとは思わなかった。それを望むのはお門違いなのだろう。それでも念を押すように尋ねてしまうのは、心のどこかで一抹の望みがあるからだ。未練、とも言う。
だが元親は、小さくごめん、と呟くだけだった。
(ああ、分かっている)
分かっているとも。
ありがとう。
家康がそう言う前に、元親のそんな呟きと謝罪が背中にぶつかった。泣きそうだ。それを堪えて、顔を上げた。思い切って振り向いたが、もうそこには何もない。誰かがいたという痕跡もなく、ただ優しい友のまなざしの名残だけがあって、家康は一粒だけ涙を流した。
「元就様」
たん、と力強く床を踏みしめる音に気付き隆景は扉を開け放した。
次いで現れるのはひどく懐かしい、暗緑色の戦装束に身を固めた武将である。
鳥の翼のような大袖。胸元に揺れる一文字三つ星。続いて現れた隆元が兜を抱えて現れる。長い沓を履くのを手伝い、兜を身につける。家臣が持つ輪刀を渡すため隆景が手に持つとそれがずしりとした重さを伝えた。恭しく差し出されたそれをいとも軽々しく受け取って、元就は、安芸の国主、毛利元就となる。わずかの衰えも見せない若々しい姿は日輪の光を浴びて神々しく輝き、冷たい美貌も見下す事に慣れた視線も何も変わらぬまま。平伏したまま主の言葉を待つ人々が息をのむのが分かる。肌を刺すようなぴりりとした緊迫感に、周囲は静まり返った。
「これより海賊討伐に向かう。全て我が采配通りに動け。使えぬ駒はいらぬ」
死を覚悟せぬ者だけついてこい。
静かな命令だが、力強く響く声に、ざわ、と闘志がふくれあがった。
瀬戸海は凪いでいる。だがいつもは商船が行きかう蒼い海は、数百の舟がいくつかの集団を作り、中央にいる安宅船を取り囲んでいた。ひるがえるは毛利の家紋。びっしりと並んだ毛利の兵たちが弓を構え、合図を待っている。
対するは同じく集団で巨大な大筒をかまえた船を先頭に配置されており、長曾我部の家紋がこれでもかと立ち並んでは、強風にあおられるたび男たちの歓声が上がった。高揚する士気は誰が始めたわけでもなく下手な歌を歌い、法螺貝が鳴り、笑いと下品なヤジとがそれに混ざる。
大筒の先端で碇槍を肩に担いで遥か前方を睨む鬼は、獰猛な笑みを浮かべた。
「さあ、早くきやがれ」
その声が聞こえたわけでもないだろうに、毛利の水軍が速度をぐんぐんあげて迫ってくる。
「撃て!」
怒号と同時に弾がこめられた筒から派手な砲撃が始まった。次々と沈んでいく船に満足しながらさらに速度を上げて毛利の船を捕える。
「あれだ!あの船につけろ!」
「アニキ、小早に飛び乗って下さいよこれ以上速度上げるの無理ですぜ!」
「うっせえな、やればできる!」
気合いだ気合い、などと何とも無謀な命令を下す主君に、部下たちは呆れて、だが豪快に笑いながら仕方ねえな、と肩を叩く。
「楽しそうっすねアニキ」
「当たり前だ。何のために帰ってきたと思ってるんだ」
「毛利と戦うためですかい?」
「ああ、そうだよ!」
眼前に迫る毛利の船の先端に、細い影がすらりと立ちつくしているのが見える。あの特徴的な武器で体を守るようにたつそれは、ぴんと伸びた背と長い兜が彼の存在を大きく見せていた。深く被った兜からのぞく冷え冷えとしたまなざし。
(これだ、俺が欲しいもの)
どくり、と臓腑が熱く滾る。まるで沸騰したての湯を一気に飲み込んだかのような熱さに、思わず左拳で胸をおさえた。
「ふん、久々に相まみえるというにまるで変わらぬ阿呆面よ」
「おうおう言ってくれるじゃねえか隠居じじぃが。あんたとやりあうためにわざわざ戻ってきてやったんだ、おとなしく殺されな!」
「笑止。わざわざ殺されに瀬戸海へ舞い戻ってくるとは、鬼の思考は人とは違いまるで理解不能よ」
言い終わらぬうちに眩い光の輪が飛んでくるのを飛び退って避けると、大きな衝撃とともに二艘の船が横付けにぶつかった。おおおおお、と両軍の兵士たちが一斉に白兵戦を開始する中、元親は碇槍を突き出し跳躍した。急所を狙って振りおろされる重いそれを難なく輪刀で弾いて、元就は軽やかに舞いながら距離をとる。互いの鋭い目が交差し隙を窺う。息を吐く、吸う、細く吐く。二度、三度。
「くたばれ性悪狐が!!」
碇槍が炎をまとって元就の周囲を襲った。足元は波に揺れ、さらに戦う兵士たちの重みでぐらぐらと不安定極まりない。一歩間違えれば海に突き落とされて上がってくることすら困難だろう。それでも海を守り、そこに生きようとするふたりの武将に迷いはなく、恐れもなかった。ごぅ、と全てを焼きつくそうとする炎の中で元就は輪刀を掲げ日輪の威光をもって炎ごと焼きつくそうとする。
「それで仕舞いか海賊。この時のために待っていてやったと言うに物足らぬ」
「ははっ、じゃあ同じだな。ここで決着つかなくても俺はあんたが守ろうとする全てを狙うぜ。何度でも、この先何年、何十年たとうともだ。あんたは俺から逃れられない」
「逃れる?何故逃れなければならぬ。それは我も同じこと。時が尽きることないのであれば未来永劫貴様の首を狙うのみ!」
がきぃ、とふたつの得物がぶつかり合い火花を散らす。白い日輪の光と真っ赤な炎に包まれながら、ふたりは永遠に決着がつかぬのではないかというほど長い時間戦の中にあった。肌が血で濡れ足元がすべり、無様に手をついて転びそこを蹴り飛ばされ、それでもなお立ちあがる。両軍の火薬が尽き兵士たちの体力が尽き日が暮れても、ふたりだけは戦いを止めようとしない。やがて互いの息が切れ同時に沈みかけた船に倒れながら、ふたりは満足そうに笑った。それを見守るように、煤と血に汚れた男たちが少し離れた船の上から見下ろす。
「これで良いのでしょうか」
「良いのでしょう。およそ我らの命ある間、おふたりの間に何かしらの決着がつこうとも思えませぬ」
ごらんなさい、あんなにも楽しそうではありませんか。
そう言いながら疲労困憊の様子で座り込む敵軍の大将を隆元は呆れたように見やって苦笑した。
視線の先ではもうとうに動けないだろうに、両軍の総大将ふたりが沈みかけた船の床に転がって悪態をついている。
「引き上げたほうがよさそうですね」
「そうですね」
よろよろと立ち上がりながらゆっくり去っていく長曾我部の当主に、隆元もうなずいた。
一方、そのうちそれぞれの嫡男あたりが迎えに来るだろう、と勝手に安心しながら、元親と元就のふたりは動けない体を仰向けに倒して明るい月を見上げていた。
「なあ」
「何ぞ」
「どうするよ」
「何がだ」
唐突な問いかけに少し目を隣りを向けると、元親は夜空を仰いだまま目を閉じていた。
「これからだよ」
「・・・・我は厳島を離れぬ」
「家康の時代が終わってもか」
それは、監視下にあるからか、という意味で尋ねたのだろう。
元就は僅かに息を吐いた。笑ったようだ。
「我は日輪と、厳島の女神の加護のもとにあるゆえ」
ふたりでどこかへ行ってしまっても構わない。そう神は微笑んだが。
元就は、愛する厳島を離れるつもりはなかった。たとえ一時的に離れたとしても、きっとここへ戻ってくるだろう。
「貴様はどうするのだ」
「俺か。俺はなあ・・・。別に、四国にいても構わねえが、そうだな。まだ見ていない海を見てぇな」
「そうか」
「ああ。でもまた戻ってくるさ。この瀬戸海にな。おまえがいるから」
「我がいるからか」
「そうだ。あんたがいる限り戻ってくる。そんでこうして戦いを挑むだろう。あんたは海賊討伐にまた出てくるんだろう?そして決着がつかなければまたどこかへ行く」
「何も解決せんではないか」
「何か解決する必要があるのか」
ぎしぎし、と船が傾いて、少しずつ浸水してくるのが分かった。このまま冷たい海に投げ出されてはかなわない。
元親はあちこち痛む体をゆっくり起こして、すぐそばで動かないでいる元就の腕を掴んだ。
「迎えを待ってる余裕はなさそうだ。行こうぜ」
「どこへ」
「どこへって、そりゃあ・・・」
父上、とふたりの男の声がする。みずから船を操りこちらを向かってくるそれぞれの嫡男を認めて、元親は元就の腕を放すと囁いた。
「人のことわりから外れた、隔てた世界へ」
未来永劫、敵としてそばにあるようにと。
そう願った。