電車空いてたなあ、などと呑気なことを呟く恋人(兼捨て駒扱い)をちらりと見上げて、毛利は呆れたように嘆息した。
「グリーン車だからな。昨今の不況ゆえか家族づれも自由席を選択するのであろう。それでも旅行に出かけるくらいには浮かれているということか。嘆かわしいことよ」
「おまえ言ってることいまいち難しくて俺ワカンネ。ていうかグリーン車予約したの俺だからな!金払ったの俺だから!ちょっとは感謝しろよなー」
「どうもありがとうございます」
「棒読みかよおいボーカロイドの方がまだ感情こもってるわ」
なんだかんだと言いつつ電車を降りて、改札を抜けようとしてガシャコン、と挟まれるのはお約束である。どうやら長曾我部のICカードの残金が足りなかったらしい。これは恥ずかしい。通りすがりの人たちにじろじろ見られるわ、駅員があきれ顔で寄ってくるわ、しまいには同行者である毛利は他人の振りをしてさっさと先へ行ってしまった。慌てて追いつきながら照れ笑いを浮かべると世にも意地の悪い笑みが返ってくる。完全に他人を馬鹿にしたような、見下した顔だ。しかしぞっとするほど奇麗だからタチが悪い。ああこの顔に惚れたんだよなあと思うと、まるで自分がマゾであるかのようで長曾我部は何だかがっかりするのだ。そんな性癖はないつもりなのだけれど、と。
「恥ずかしい奴め。我の隣りを歩くな、五十メートル離れてついてこい」
「何だよう」
ちぇっ、と拗ねた顔をつくり、ふたり分の荷物をぶら下げてぴったり寄り添うように隣りを歩く。じろりと睨まれたが何も言われなかった。毛利が本気で怒るときは無言で殴られそのまま一週間くらい口をきいてくれなくなるので今日はずいぶんと機嫌がいい方なのだ、と思う。
(たぶん)
付き合いだして五年、再会してから十五年、出会ってから四百年以上。それでもいまだに新しい発見があるというのは不思議なことだ。たとえば、あれだけ酒は飲まないと言い張っていた毛利だが実は割といける口だとか。甘味好きなのはよく知っているが現世では常にポテチを家の棚に欠かさず置いているとか。潔癖症だと信じていたがたまにずぼらでがさつで適当なところとか。なにしろ毛利の部屋はたまに掃除してやらないと荒れ放題なのである。脱いだ服はちゃんと仕舞え、掃除機をかけるときは隅までかけろ、賞味期限切れの菓子は捨てなさい、と口を酸っぱくして言ったところでまるで聞いてくれないのである。
そんな毛利だから、機嫌の良し悪しは何となく分かっても心の底ではどう思っているのかいまだに分からないことだらけだ。
「美人は三日で飽きるって言うけど」
「は?」
ぽつりと口に出して呟くと、耳ざとく毛利が振り向く。
怪訝な顔で僅かに首を傾げ先を促す視線を送られて、長曾我部は笑った。
「いや、何百年たっても飽きねえなあと思ってさ」
「そうか。我は飽き飽きしておるが」
「ひでえ!」
ぽんぽん軽口をたたき合いながら人混みを抜けバス停を目指す。どうやら同じ方向へ向かう観光客は皆無のようでやたら間隔の多い時刻表がぺらりと風に揺れていた。いまどき珍しい雰囲気のバス停だ。まるでここだけ、タイムスリップしたような。
「えーっと。あ、もうすぐ来るな。お茶だけ買っておこうぜ」
「ふん」
鼻を鳴らして小さく顎を向ける毛利に苦笑しながら長曾我部は後ろにあるこれもまた時代がかっている古ぼけた自販機にコインを投げ入れた。世の中おサイフケータイが流行っているがどうにもあれには慣れない、と思っている。コインを掴んだときの指の感触や、金属の匂いや、落とした時のガラスが鳴るような音が彼は好きだった。ポケットには常に小銭入れが入っているし高校時代毛利に誕生日プレゼントだと渡されたガマ口のおばあちゃんが使うようなそれを片時も手放したことはない。見た目はともかく機能性はじゅうぶんで、嫌がらせなのか本気で祝ってくれたのか定かではないが、長曾我部はこれでいいと思っている。甘々である。むしろ蝉の抜け殻をプレゼントされても喜ぶだろう。そういう男なのだ。
毛利にはロイヤルミルクティーを、自分用には緑茶を買って荷物を持ち直したところで滑るようにバスがやってきた。聞き取れない車掌のアナウンスでドアが開く。誰も乗ろうとしないし誰も乗っていなかった。このままトンネルをくぐって異世界へ連れていかれたらどうしよう、と中二病的な発想を三秒だけして、乗り込む。
ふたりが向かうのは山奥にある何の観光資源もない村だった。別に、そこでいわくありげな古の儀式を見に行くとかそういうことではなく、単に長曾我部の遠い親戚がそこで旅館を営んでいるらしいので厄介になりに行くだけである。温泉が出るわけでも埋蔵金が眠っているわけでもない村の旅館なんぞ繁盛しているのかあやしいものだが、ごくたまにやってくる登山家や道に迷った通りすがりが泊って行くらしい。呑気なものである。
「まあ普段は貸家として駐在さんご一家が住んでるだけなんだよ。旅館って言うのは名ばかりでさ。と言っても教えてくれた人が泊ったのは二十年くらい前の話らしいけどな」
「ほお。つまり警備員が住んでいる民宿に泊れるということか」
これはたのもしいことだ、とどうでもよさそうに答えて、毛利はさっそく荷物の中からポテチを取り出した。友人から送ってもらう九州しょうゆ味は最近の彼のお気に入りである。うまかっちゃん味をわざわざ取り寄せるあたり、どうにもマイナーなところに惹かれるらしい。名古屋へ行った時もマウンテンだか何だかへ通い詰めていたようだ。
運転手以外無人のバスの最後尾座席を陣取って、荷物を置き、菓子を広げ、ついでに大きな地図を広げて、バス停から村へ行く間の道順を確認した。田舎では車がないと生活ができない。当然これから行く集落も山の中にあるだけあって公共の乗り物はご親切に入口までは乗せて行ってくれないのだ。
「徒歩二時間ってところか。迎えに来てくれればいいんだけどなあ」
「祭りの準備で忙しいのだろう。仕方ない。のんびり歩けば良い」
いまどきの若者は歩こうとしない、運動不足で生活習慣病で不健康でうんたらかんたらと何故か説教を始める毛利に適当に相槌を打ちながら彼がつまんだポテチを奪った。こなくそ、とむきになって毛利がそれをかばい、幼稚園児のような攻防戦を繰り広げるうちに薄っぺらいポテチはぱちりと割れて飛び散ってしまった。
「あーあ」
「ばかもの」
さりげなく屑を椅子から床へ払い落しながら睨む。ああ、そのきついまなざしが好きだ、と長曾我部は頬を緩めた。いやマゾじゃないぞ、俺はマゾじゃないぞ。
肩にもたれかかるようにして眠る毛利の寝顔を眺めていたらいつの間にか目的地に到着したようだった。途中途中のバス停に一切止まらなかったバスは、おそらく定刻よりずっと早い時間に走ったのだろうがそれはいいのだろうか。都会では遅れることはあっても時間より二十分以上早く来ることなどありえない。早いと思ったそれは一本ないし二本遅れていた前のバスに違いないのだ。もそもそとしたアナウンスで追い出されるようにして降りたふたりは、見渡す限り何もない山の中、置き去りにされたような気分になった。心もとないとはこういう状態のことを言うのだろう。かろうじてバス停には屋根と、木製のベンチが備え付けられているがとても座る気にはなれないほどぼろぼろである。地元の住人でもこのバス停を利用する者はほとんどいないのではないだろうか。地元、というのがどのあたりまでを指すのかは知らないが。
「元親、それ寄こせ」
「あー?荷物か。いいよ俺持つ」
「寄こせ。女じゃあるまいし自分のものくらい自分で持つわ」
ここまで持たせておいてこの言い草である。どうせなら人目の多い出発地で持っていて欲しかった。誰もいないこんな場所でいきなり気遣いを発揮されても意味不明である。
ほら、と手渡された荷物をごそごそ探り、毛利はどこに隠し持っていたのかチョコバーを取り出しかじりはじめた。破り開けたごみはきちんと長曾我部の右手の中へ。荷物は再び長曾我部の左手へ。十五秒前に言ってのけた発言をとうに忘れたらしい毛利はがじがじとチョコをかじりながら先を歩いていく。当然地図など見もしないし、適当にぶらぶら進んでいるだけである。こいつ放ったらかしにしたろか、と一瞬長曾我部は意地悪なことを考えたが、どうがんばっても五歩くらい歩いたところで自分は振り返ってしまうのだろう。日のあたる場所で、互いの影が遠いと不安になる。こいつの影を踏んで引きとめることができれば、と子供のころ考えたことがある。実践してみても彼は決して待っていてはくれない。どんどん先へ行く。振り返りもしない。だから長曾我部は、常に彼の隣りを歩くし、何度でも振り返ってはその存在を確認するのだ。おいて行かれるのを恐れる小さな子供のように。そこまで考えて、長曾我部は声をたてて笑ってしまった。
「気色悪いぞ」
「へいへい。ま、迷いはしないだろ。この山道ずうっと登るだけだもんな。あ、段々畑」
畑一面の白だ。その美しさと眩しさにふたりして目を細める。
「あれは何の花だ?」
「みかんだよ。今が一番奇麗だよな」
「初めて見た。みかんの花は白いのか」
甘くいい香りが広がる。まるで梅雨を忘れて夏がくるような、そんな匂いだ。
「夏に日照りが続くと潅水をやるんだ。海の波が太陽の光を反射して、それを実が吸収して、甘くなる。太陽の恵みってやつだ。あんたの好きな」
「ふん」
まんざらでもなさそうな顔で鼻をならして、手でひさしをつくり段々畑と、その向こうに広がるのだろう海を見つめた。ビルが立ち並ぶばかりの都会から少し離れただけでこうも穏やかな風に変わるのかと不思議に思う。匂いも風も色さえもが柔らかい。
「行こうぜ」
頼りない肩をつつくと、振り返って笑われた。今度は睨まないのな。うん、その顔好きだよ。すべてを許すような素の表情が。取り繕うことばかりを覚えた彼の、自分だけに見せる内の内だ。まさぐらなくても手に取るように分かる。冷やかさの中にあるのは意外な暖かさだ。昔は人を斬って前へ進むことをためらわなかった毛利の、当時は知らなかった部分なのだろう。許せないことばかりだった。今ならもう少し大人になれただろうか。
どれだけ歩いても変わり映えしない景色だったが、飽きることはなかった。こうして山道を歩くという行為はそう体験することではないし、草の青い匂いも新鮮だった。名前の分からない花や鳥に適当な名前をつけながら一時間半ほど過ぎたころ、目の前に橋が見えてきた。流れる川は飛び越えられるほど小さなものだったが、かけられた橋には律儀に名前が彫ってある。薄汚れたそれを手でこすりながら長曾我部はのぞきこんだ。
「『もどりばし』か?京都のアレ真似たのかねえ」
「さてな。・・・元親、あれ」
「ああ?」
ほれ、と示された方を見れば、田舎の道にはどこにでもあるような地蔵がひっそりと佇んでいた。供えられた花はまだあたらしく、線香は消えたばかりのようにも見える。一本の風車がカラカラと回っていた。橋の向こう側すぐにもう集落があるのだろう。それに気づくと、それまで感じなかった人の気配があるような気がして長曾我部はきょろきょろと周囲を見渡した。毛利は動じずじっと地蔵を見つめている。ふいにしゃがみこんで手を合わせて何事かを呟いた。
「戻り橋。死者が一瞬だけ蘇る橋。この近くには墓があるのかもしれぬ」
「それでお地蔵さんか」
「行こう」
毛利はもう一度だけちらりと地蔵を見て、橋を渡った。ああ、お供え物の饅頭に目が行ったな、と気づいたがあえて黙っておく。そんなもの、いくらでも食わせてやると言うのに。奇麗な顔をして食い意地がはっているのだ、こいつは。そんなところも可愛くて好きだけどな。おいしそうに物を食べる人間は、それだけで何だか印象が良い。料理の腕をふるう甲斐があるというものだ。
橋を渡り少し歩くと、やがて見慣れたアスファルトが奇麗に舗装されている通りに出た。歓迎、いらっしゃい、などと書かれた門があるわけではないが確実に集落の入口だ。正面にはメインストリートなのだろう大きめな道が一本先の方まで通っており、左右には商店が営まれている。その向こう側に広がるのはのどかな田園風景だ。どこからか鶏や牛の鳴き声が聞こえる。ぷんと漂うのはたい肥の、有機物の匂いだ。確かに記憶のどこか遠いところに残るそれに深呼吸をする。隣を見ると、毛利は懐かしそうな、それでいて初めて見る光景に驚いたような、複雑な表情を浮かべていた。手拭いを頭に巻いた老婆がじろじろとふたりを観察しながら通り過ぎていく。子供の姿はなく、老人ばかりだ。過疎化というやつなのだろう。だがたまに玄関脇に三輪車が放置されているのを見ると全くいないわけでもないようだ。
「元親、旅館の名前は?」
「えーっと、四国屋」
大層な名だな、と足を止めて見上げる看板は、趣のある墨文字と割れた電球とがやけにマッチしているような、そうでないような、あまり手入れされてはいないのは確かなものだった。
いらっしゃいませ、とふたりを出迎えたのは何故か長曾我部の親戚ではなく、この村の中では異色な雰囲気の婦人だった。野良作業などしたこともないような都会のたたずまいを見せているが、人懐っこい笑顔がうまくこの旅館と調和している。白いエプロンは一切の汚れがなかった。ぴんとノリがきいたそれはまるで舞台衣装のようでどうにもちぐはぐである。
「あのー・・・」
「ああ、長曾我部さんですよね。いま女将さん買い出しに出ていて私が留守をしているんですよ。村の駐在の妻で今井と申します。お待ちしてしておりました」
「ああ、駐在さんの」
荷物を受け取ろうとするのを辞退しながら、案内されるままに板張りの廊下を進んでいく。足踏みする度にギシギシとなるそれは趣がどうとか以前の問題だ。ただ痛んでいるだけである。田舎ならではの広大な敷地にそれこそ武家屋敷のような広い家にも関わらず全く手入れがされていない。おそらく家族や駐在一家が住む場所だけ確保してあとは放置しているのだろう、あちこちが痛んで修理されないままむなしくさらされていた。どこぞのホラーゲームのように、開かずの間や怪しい祭壇がどこかにあっても違和感がない。いきなり床にカメラが置いてあって幽霊に襲われても仕方ないと思わせる、というのは言い過ぎか。
それでもどうにか「旅館である」との矜持を捨てずにいるのか、母屋から最も遠く離れた一角のみ奇麗に掃除がされているようだった。色あせた襖の上には板がはめこまれ、虫がはったような細い文字で【梅】と記されている。
「お食事もこちらへお運びします。静かすぎるでしょうけれどこちらの方がかえってゆっくりできますでしょう?ただ残念なことに」
ほう、とため息をつきながら、今井夫人はてのひらを右の頬に当てる仕草をした。
「テレビがなくて」
さも一大事、といった表情で言うので、長曾我部と毛利はつい顔を見合わせて噴き出した。
「いえ、かまわないですよ。俺たちテレビっ子じゃないんで。適当にくつろがせてもらいます」
「そう?今の子はテレビを見ないのねえ」
今の『子』ときた。
おしゃべり好きなのか、それとも田舎の人々とは話が合わないのか、夫人はまだしゃべり足りなさそうにしていたが再び廊下がぎしりと音をたてるのに気づいて慌てて振り返った。
「あ、女将さん」
長曾我部の遠い親戚とやらだ。
「いらっしゃい。お久しぶりです、」
にこりと笑う老婆は、声に出さず呟いた。
『殿』と。
困ったような笑みを浮かべる長曾我部に、女将はそれ以上なにも言わず何事もなかったかのように夕食の時間を告げると今井夫人を連れて出て行った。
「あの女将」
「・・・ああ。かつての家臣の、奥方だろうな。会うのは初めてなんだ。身内に、この旅館紹介してもらっただけで。遠い親戚が営んでいるから安くしてくれるとしか聞いてない」
「別にそう言い訳がましく言う必要はなかろう」
興味ない、と言った顔で毛利は立ち上がって窓を開けた。緑に囲まれた自然いっぱいの庭、と言えば聞こえはいいが、つまりはただの田舎の風景である。それがなつかしいと思うのは記憶の中にある山城を思い出すからかもしれない。
「知らぬ間に我らは様々な縁ある者らと再会しておるのだろう。それを表情や言葉で告げる者もおれば、うまく隠し通そうとする者もおる。人生を狂わされてはかなわぬからな」
冷ややかにそう言いながらも、毛利の表情は決して蔑みに満ちてはいないのだった。長曾我部はその理由を知っている。かつて安芸を統べる大大名毛利元就に仕えた大勢の者たちの中でも、特に重鎮としてつき従った者たちが今生でも毛利家に仕えていることを、毛利自身呆れながらも受け入れているのだ。そうはいっても彼本人に従っているというわけではなく、彼の父と兄が統括する財閥の一員としてだったが。
ひとりだけ毛利元就個人に従うと言って聞かない男が、世話役、または執事として傍にいる。さすがに、成人した男ふたりの休暇についてくるようなことはしないようだ。
周囲にはふたりしかいないが、それでもどこか空気がざわざわと落ち着かないのはこの村が現在特別な空間にあるからだろうか。調子外れのお囃子が脱力を誘う。今夜は近隣の集落と合同でお祭りが執り行われる。と言ってもホラーゲームにありがちな怪しい生贄の儀式ではなく、昔からの慣習で年に一度行われる豊穣祭らしい。連休になると都会へ出た若者が一時的に帰郷するため、毎年この時期に行われるのだそうだ。
「よそ者が紛れても大丈夫なのかね。外部の人間はこういう閉鎖的な場所では目立つからなあ」
「都会から戻ってくる若者に紛れればそう浮かぬだろう。おまえが騒がなければの話だが」
ふん、と毛利は呆れたように言って、立ち上がると部屋の隅々まで確認し始めた。物入れの棚を開けて浴衣を確認し、トイレと洗面所を確認し、何気なく掛け軸をめくる。何だおまえもそういうの気にするのか、とからかうように笑えば無表情で振り返って首を振る。
「隠し扉でもあるのかと」
「それジョークだよな?」
「はて。隠し扉はないが札が貼ってあるな」
だから真顔で冗談言うなっつーの。
田舎の時間はゆっくりと流れる、と言うのは実は嘘だろうと長曾我部は思う。人々はのんびりしているようで、割りとせっかちである。なぜなら一日のリズムが忙しない。朝起きるのも、食事をするのも、仕事に出かけるのも、就寝するのも早い。五時起き二十一時就寝の世界である。だから、普段ならふたりがまだ大学にいるような時間に夕食ですよ、と豪勢な食事が運ばれても、食後のお茶でも飲もうと思っている時にお風呂が沸きましたよ、とわざわざ案内しにこられても、文句を言うのは筋違いなのである。
お祭りともなれば露店が軒を連ねおいしい食べ物もあるだろうが、だからと言って旅館の食事をキャンセルするのはあまりに惜しい。
特に名物料理があるわけでもない、味は確かだが見た目は精進料理にも似た、山菜と川魚と肉料理を食べ、温泉が出るわけでもないが広い大浴場でのんびりするとあとはもうやることがなくなる。祭に出かけよう、という流れはごく自然のものだった。
「きっとこれでも賑やかな方なんだろうなあ」
村中に張り巡らされた提灯の明かりは、都会のネオンとは比べ物にならないがぼんやりとしたそれが安堵感を誘う。やはり懐かしい。目に痛くないほどの灯りは、今の世ではただ暗めの、役立たず呼ばわりされるばかりだ。何でも強すぎるものばかりが好まれる世界。こんなにも星は明るく、月は美しく、舗装されていない地面は足に優しいと言うのに不便だつまらぬと文句を垂れる。
村のメインストリートを歩く人々は皆、同じ方向へと歩いていく。流れる一本の細い川のように上手から下手へと。うまくその波に乗りながら二人は、少しずつ祭のメイン会場へと入って行った。どうやら神輿が持ち上がったところらしく、一斉にわあっと歓声が響く。人の山の隙間からのぞくそれは思ったほど大きくはなく拍子抜けするほどだったが、本来神輿のサイズに大きいも小さいもないのである。きらびやかであれば良いというものでもない。神の乗り物であるそれに人間の感性をあてはめることほど、無礼で厚かましいものはないだろう。
どうやら若手の男たちが担ぐ神輿はここからメインストリートを練り歩くようだ。勇ましい駆け声と共に駆け去るそれを見送りながら、ふたりは黙り込んだまま闇に紛れてぎゅっと手を握った。人々は神輿を追って笑いあいながら今度は彼らが来た道を逆流するように戻って行く。それでも半分ほどは居残って、思い思いに過ごすようだった。
「綿菓子、食わねえの?」
何故か声をひそめて長曾我部は毛利の顔をのぞきこんだ。人前で触れることを嫌がるくせに、非日常の空気が彼のストッパーを外すのか、握り合った手は互いの熱を伝えるだけで嫌がるそぶりを見せなかった。ややうつむいた毛利の頬にかかる髪がくっきりと陰影を生み出して、儚げななまめかしさを増長する。儚い、などと、毛利の性格を考えれば笑い飛ばしそうな単語ではあるが、珍しくしおらしい態度などとられれば捕まえておかねばと焦るほどに彼の立ち姿は奇麗だった。
「もう、帰る」
何かを感じ取ったのだろう、毛利はそっと長曾我部の腕を引き寄せると、小声で呟いた。見るものも味わうものも、ここにはないだろうと。彼はそう言うのだ。
「ああ、帰ろうか」
今にも雨が降り出しそうな生ぬるい風が吹いて、灯篭にともされた灯りがふわりと揺れた。
抱きしめる。キスをする。目を塞ぐ。互いの肌の温度を確認するように、そっと撫でる。鼓動を確認して、安心する。それだけでこうも満たされるのはおそらく共にいる時間と、共にありたいと願う時間とがほどよいバランスで保たれているせいだろうと長曾我部は考える。触れたいのに触れることの叶わなかった時代があったせいだ。空いた穴を埋めるように、取り返せない時間を取り戻すように、ゆっくりと、しかし確実にふたりは互いの存在を認識する。
どんっ、と突き飛ばされて、長曾我部は背中をしたたかに打った。
「いってぇ・・・。おまえなあ。乱暴するなよ」
「うるさい黙れ口を閉じろばか」
「よくもまあ、流れるように罵倒しやがる」
その口を閉じろ、と言いつつも、塞がれるのは唇であったから、長曾我部は文句を言うのもほどほどにして思う存分それを味わった。濡れた音が夜の座敷に響いていたたまれない気分になる。今井夫人は、女将は、旅館の主は、今頃どこで何を。
しているのか、などと。
毛利は長曾我部にのしかかるようにして押さえつけると、じっとこちらを見つめる片目の男をのぞきこんだ。頬を手の甲で撫でると高い鼻に唇を落とす。目尻を舐めて、目を閉じるなと命令した。いつだって彼は我儘で挑戦的だ。
(そしてすっげえ偉そう)
腹が立つことも多いけれど、結局許してしまうのは惚れた弱みか、それとも。
ちっげえよ俺はだから、マゾじゃねえって!
ただ、つんと澄ましたお奇麗な顔が好みすぎて、蔑まれても見下されても、あまつさえ殴られても不条理な罵倒を受けても、突き放せないし捨てられない。末期だ!
「ん、んっ」
ぬるりと舌が入り込んできて、呼吸が苦しい。思い切って鼻をすすりあげると今度はきゅっと細い指でつままれた。
「んーっ!ちょっ、殺す気かおまえ!!」
ぷはっ、と無理やり顔を離して思い切り空気を吸うと、毛利はぺろりと唾液に濡れた唇を舐めて笑った。
「残念だ。そのまま死ねば良かったのに」
「良く言うぜ。俺が死んだら寂しいだろ?もうおまえを抱けなくなる」
「ふざけるのも大概にしろ。何故我が寂しいのだ。寂しいのはおまえだろう。あの世で泣くがいいわ」
そうして再び屈みこんで、無理やり長曾我部の浴衣を開け広げ、首筋から鎖骨へと、ちろちろと舐めて回す。小さな子犬のような仕草がくすぐったくて身をよじったが、どこにそんな力があるのか不思議に思うほどしっかりと抑え込まれた。もちろん本気を出せばこんな小柄な体を押し返すことは可能だが、そんな野暮はしない。いいだろう、好きなだけ堪能しろよ。どんな味がするんだ?自分の体など舐めたことがないから分かんねえ。毛利は甘い。あとちょびっとしょっぱい。それは知っている。ああ、俺も舐めたいな。
飽きもせずに長曾我部の胸板を舐めまわすのはそのまま放っておいて、のしかかる細い体の腰に手をまわしぐいと引きつけると互いの熱がすぐに触れてびりっと背筋が痺れた。ずんと重くなる下半身が熱を帯びて早くしろと急かす。本当に、じっとしていられないやつだ、と長曾我部は照れ笑いを浮かべた。それに比べ毛利の、なんとまあ意地悪そうな笑みだこと。これではもうどっちが抱く側で抱かれる側か、第三者がいれば分からなくなるに違いない。
おもむろに毛利は身体を離すと、汗にじっとりと濡れている浴衣の帯をするすると解いた。とたんに露わになる白い体に長曾我部はごくりと唾を飲み込む。いつもは見下ろすことの多いそれを下から見上げるというのもまた、格別だ。
「何だよ、全部脱がねえの?」
自分で思っていた以上に声が掠れて何度も生唾を飲み込んだ。すでに喉がからからだ。
毛利の帯を引っ張って脱げよ脱げよと催促するが、毛利は笑うばかりで一向に裸になろうとはしなかった。すでに反応している長曾我部のそれをぴんと指で弾いて、うわっ、と声を上げる男を見下ろし嘲笑う。屈みこんで下着の上から口に含むとそのあまりにいやらしい痴態に長曾我部ははっきりと体を震わせた。まずいこれはまずいって。こいつ絶対調子に乗ってるな。
「おい、毛利っ」
ぐいぐいと毛利の頭にてのひらを乗せてよせやめろと声を張ったが、毛利はそれをくわえたり舐めたりしながらちらりと目を上げて微笑んだ。
「たまには良いではないか。嬉しいだろう?」
「駄目だって駄目駄目。逆だっ俺がそれやりてぇの!!」
「我儘を申すでない。一度いかせてやる」
「ぎゃああ」
情けない悲鳴が上がる。まさかの姫若子の再来か?しかしそれにしても毛利は楽しそうである。長曾我部をからかうときほど、いつも冷静な彼が生き生きすることはない。そのうち長曾我部も、まあこいつが楽しいならいっか、で許してしまうので、結局調子に乗るだけで悪循環である。
「なあ、もういい?」
「情けない。貴様それでも土佐の男か」
「ごめんなさい」
よいしょっと、と頃合いをはかって毛利の体を押し倒すと、意外にも彼は素直に従った。座敷に寝転んで攻守逆転だ。やっぱり、この高慢ちきな男を見下ろすのは気分がいいな、と長曾我部は思った。今度は自分がされたように、毛利の顔をべろべろと舐めまわし、嫌そうに顔をそむけられてちょっぴりしょげた後、首から鎖骨へと、そして胸へと唇をはわせていく。ぴくぴくと反応する体がおもしろくていくつもの痕をつけるが彼はきっと気づいていないだろう。意味のなさない声があがるころにはすっかりふたりともどろどろに溶けている。このまま融合しそうなほどに気持ちがいい。どこもかしこも唾液と体液に濡れてぐしょぐしょになって、べたべたのどろどろだ。見た目に反して案外柔らかい毛利の体をぐいとふたつに折って自身を埋め込むと、一際甘い声が上がって長曾我部はにやにやと笑った。大声で笑い出したいのを堪えてひたすら味わうことだけに集中する。抱いているのは自分なのに全てを持って行かれそうなほどに引きずられ、愛し合っているのか殺し合っているのか分からなくなっていく。湿っぽい空気と嬌声と互いの荒い呼吸だけが、部屋に満ちて霧散していく。もう無理だ、とか、いやだやめろ、とか、色々罵声を浴びたような気がしたが長曾我部はその一切を無視した。そうしていつからかはっきりとした声が聞こえなくなった頃、ふと気付くとぐったりと弛緩した体がぐにゃりと倒れていて、ああまたやってしまった、とぼんやりと思った。それでも後悔はしないし反省だってしない。お互い様だ。おまえも気持ち良かっただろう?
足りねえ全然足りねえ。
ぜぇぜぇと肩で呼吸をしているくせに、それでも長曾我部は気を失っている毛利の頬をぺたぺたと叩いた。一度引き抜いて体を起こし、抱きしめる。彼の首筋あたりに顔を埋めて、足りない足りないと呟いた。
「なあ毛利、目ぇ覚ませよ。そんで風呂入ってうまいもん食ってもう一回やろう。なあ、全然足りねえんだ。俺の中を埋めるには足りねえ。もっとだ、もっと!」
毎日二十四時間一秒たりとも離れたくない。
いつの間にか長曾我部はぼろぼろと子供のように泣きながら、毛利、毛利、と呼んでいた。俺の孤独を埋めるのはおまえだけだ、だからきっとおまえの孤独を埋めることができるのも、俺しかいないだろう。病める時もすこやかなる時も、息をしている時も呼吸が止まった時も。前世でも現世でも来世でも。
「ちくしょう、殺してやりてえ」
ふ、と息を吐く気配がしてのろのろと顔を上げる。泣き濡れて腫れあがった切れ長の目がぼんやりと長曾我部を見つめていた。慌てて涙を拭って笑顔を作ろうとするが失敗してきっと変な顔になっている。
「ばかもの」
からからに乾いてひび割れた声が長曾我部を突き刺す。
ゆっくりと持ちあがった手が、そっと長曾我部の隠れた片目を撫で上げた。
何度も何度も、子供をあやすように優しく撫でながら、彼には似合わないほど優しい笑みを浮かべる。
「ああ、その時は我が殺してやろうぞ」
最高の口説き文句じゃねえか。馬鹿馬鹿しい。
ふたりはじっと互いの顔を見つめたまま、肩を震わせて笑うのだった。
またいつでも遊びにきてください、と見送られながらふたりは旅館を後にした。
”今生では、お幸せに”
そう女将に告げられたふたりは赤くなるやら青くなるやら、まさか昨夜の痴態を知られたわけではないだろうが、まともに顔を見返すことができず始終きょろきょろとしたままだった。
普段であればまだ寝ているような時間に、村を出てふたりは手を繋いだまま山道を歩く。昨日みた地蔵はもちろんそのままに、供えられた饅頭が煎餅に変っている。再び屈みこんで手を合わせた毛利はふと近くに小さな墓があることに気づいた。
「おい、元就」
「ん?」
あれ、と長曾我部が促す方向に、ちょうど村の外から戻ってきたのか、ひとりの老人が大きな包みを抱えてやってくるところだった。明らかに外部の若者がいることを不審に思ったのだろう、老人が近づいてくる。咎められないうちに、と長曾我部が軽く会釈をした。
「おはようございます」
「・・・あんたら、外の人?珍しいな」
「ええ、ちょっと旅行で」
「旅行でこんな田舎に?何もありゃせんよ」
「お祭り、昨夜のお祭りをちょっと見学しましたよ」
本当はろくに見ていないが。
老人は何度か首を傾げ、尋ねた。
「どこかに泊りなさったのかね」
「ええ、四国屋さんに」
「四国屋?」
はぁ?と今度は大げさなほど顔をしかめて、老人は鼻を鳴らす。
「いつの話だね。四国屋は十年前に廃業したよ」
「・・・え?」
何を言っているのだ、とふたりは顔を見合わせた。酔っているようでも呆けているようにも見えないが、老人は自信満々に首を振る。
「でも駐在さんが借りてるって」
「駐在がおるんは隣村だ。ほれ、その墓」
と、老人が指さすのは先ほど毛利が発見したものだ。
「今井さんって言ったかねえ。明るいいい人らだったが」
「・・・・え?じゃあ四国屋は?女将さんは?」
ついさっき会話を交わしたばかりではないか。この老人に騙されているのだろうかとふたりは疑ったが、それこそ老人はふたりを怪しむような目つきで少し距離をとった。
「だからその墓だよ。四国屋の女将の今井婆さんと、その娘で駐在さんと結婚した若女将だ。若女将の旦那の駐在さんが隣村にうつって四国屋には誰もいなくなったがね」
そっと墓の方へ足を向けると、それまで草むらだとばかり思っていたそこは一面墓場だった。山の崖を削るようにして墓標がいくつも並んでいる。
「あんたたち、狐にでも化かされたかね?」
言いながら、老人は包みを抱えなおすと村へと去って行った。
しばらくふたりは立ち尽くし、ぼんやりと地蔵と墓とを見返す。
「・・・じゃあ俺らが食った食事と風呂は?」
「・・・ふむ。まこと奇怪よな」
ふたりの頭上高く、真っ白な鳥が飛んでいく。
夏が近い。