貴殿とは戦えません、などと言える雰囲気ではなかった。
隆景は本気である。
かつて元就が使用していた采配を譲られてから数年が過ぎていた。いかに鍛錬を積んでも、隆景の手には余るものだった。
ただ振りまわすだけが神器ではない。炎を纏い、それで敵を打ち払う。本来の采配の役割とはかけ離れた、実践的なものなのだ。
生まれつき、遺伝とも言えるかもしれない小柄な体格はどんなに鍛え上げても大柄で力のある兵士たちの格好の獲物である。
それを、戦場の真ん中に立ち、あらゆる策を駆使しながらも果敢に攻める。そのための武器である。
元就はそれを隆景に託した。そこにどのような意図があるかは、実はきちんと聞いていない。
だが、その大事な神器を嫡子の隆元でも猛将として誉れ高い元春でもなく、自分に譲ってくれたということ。
その誇りと重圧の狭間で、隆景は常に揺らいでいた。
一番元就に似ている、智の小早川隆景、などと言われるけれども、智略も武勇の腕も元就とは雲泥の差だ。
神器の力が発揮できないのは己が未熟だからに他ならない。ずっとそう思っていた。
だが、あれだけ訓練してもまったく無反応だった采配が突如として火を噴いたのである。
隆景も一武人だ。新たな力を手に入れたならば試したいと思うが当然。
しかも信親に、四国へ連れて行くだの結婚しろだのと、まるで女のような扱いを受けたとなればここは見返さなければならない。
たおやかな容姿を備えていても毛利一族の血を引くものは男女問わず、すべからく気が強く誇り高い。
「邪魔をするな隆景!」
隆景が逡巡しているように見えたのか、すでに体勢と呼吸を整え立ちあがっている元春が怒鳴った。
目立つ怪我はないが、一瞬でもやられた、と感じたならばそれはひどい屈辱である。
「こいつは俺がぶっ倒すんだよ。おまえの助けなんかなくても平気だったのに!」
「そ、そんな言い方ないんじゃ、」
慌てて信親が割って入ろうとしたところを、ふたりの兄弟に睨まれた。
「おまえは関係ないだろ!」
「信親殿は黙っていてください」
「あ、はい」
ちょっぴりしょんぼりして信親はあとずさる。
あわや兄弟げんか勃発か、と思われたが、わざとらしく元就が咳払いをして、注目を引きつけた。
「そなたら、まさか長曾我部の人間を前にしてくだらぬ兄弟喧嘩を始めるつもりではあるまいな」
冷ややかな声音に、思わず信親や周囲の兵たちもぞくっと背筋を震わせる。
「い、いえそんなまさか」
「しません、喧嘩なんてしません!俺らすごい仲良しですから!」
あははは、と乾いた笑い声を上げながら、元春は大股で隆景に歩み寄り柔らかそうな髪をなでくりなでくりした。
「よし隆景、ここは仲良し兄弟の力を見せつけるところだ!」
「そ、そうですね」
しかし、と困惑したように信親を見る。
「二対一というのは、」
「俺はかまわない」
きっぱりと信親は言ってのけた。
もとより隆景に刀を振るうつもりはない。炎の舞う采配は厄介だが、射程距離にさえ近づかなければいい。問題は元春である。
おそらく、新たな力を手に入れたばかりの隆景に無茶をさせるようなことは、
「いけ隆景!そいつを焦げ焦げのぼろぼろにしてやれ!!」
「はい兄上!!」
「うわーーーーーーーーーー!?」
嬉々として隆景が采配を持ち上げると、両手で振りかぶってよいしょーっと大きく振り払った。
ゴウッと炎が舞って当たり一面が焼きつくされていく。
「あっちちち!隆景!馬鹿おまえ、」
「す、すいません!どうすればいいんですか元就さまー!?」
大惨事である。
信親の足元だけならまだしも、船全体に火が燃え移り、やがて毛利軍・長曾我部軍関係なく焼きつくす勢いだ。
「お、おい・・・大丈夫なのか?」
いつの間にか降りてきていた元親が元就の隣にちゃっかり陣取っている。
元就は眉間に皺を寄せて嘆息してから、呆れたように言った。
「大丈夫に見えるのなら貴様は救いようのない阿呆だと言うことになるな」
「ひでえ!あー、とりあえず、おい野郎共!火消しだ!このままじゃ沈んじまうぞ!」
仕方ねえな、と苦笑する顔はどこか楽しそうだ。
見れば、ぶんぶん采配を振りまわす隆景と、間を縫うように仕掛けてくる元春を何とかかわしながら逃げまくっている信親は必死の形相だがまるで子供が追いかけっこをしているようで。
「何を遊んでいるのやら・・・・・・」
毛利・長曾我部両軍の兵たちは一時休戦、とばかりに船の火消しに奔走し始めた。
ぎゃあぎゃあやっているのは信親と、元春・隆景兄弟だけである。
「元就さま、お止めしなくて良いのですか?」
はらはらしながら尋ねる桂に、元就は鼻を鳴らして笑う。
「まだ決着がついておらぬではないか。・・・・元春!隆景!なにをちんたら遊んでおるのだ!そこの阿呆をさっさと焦げ焦げにして海に沈めよ!」
「おいーーーーーーーーー!焚きつけてどーすんだ!」
慌てて元就の肩を掴みがくがくと揺さぶる。
我らが主君に何をするんだ、とばかりに桂や側近たちが刀を抜こうとしたが、元就は一睨みしてそれを黙らせた。
肩をつかむたくましい腕に手をかけ、そっと外させる。
「長曾我部」
「・・・・・・おう」
「これからは徳川の世、泰平の世とやらになっていくであろう。だがこれから先戦がなくなるとは思えぬ」
「・・・・・・そうならねえために家康は、」
「分かっておる。だがそれでも人は争いをやめぬ。そうであるならばまず、瀬戸海を守る者として次代を、またその次の代を育てていくが我らの定め」
「まあ、そうだな」
いくら元親や元就が手腕を発揮して国を平和に治めたとしても、永遠に彼らの時代ではない。
それは連綿と受け継がれていくもので、国主が馬鹿ならばすぐに国はばらばらになるだろう。それが戦国の世でなくなったとしても。
「それで、次代の技量を確かめたいってのは分かる。分かるが・・・・・・ちょっとこれは、なぁ・・・」
アレだぞ、と指さす方向では、周囲が必死に火を消しているにも関わらずまるで目に入らない三人が攻防戦を繰り広げている。
一見元春・隆景兄弟が優勢に見えるが、隆景の采配攻撃は元春にも有効なのでぐちゃぐちゃだ。
三人とも服やら髪の先やらを焦がしながら得物を振り回し追いかけっこをしている。
「弟さんを僕に下さいおにいちゃん!!」
「死ねえええええええええええええ!」
「ちょ、そこ危ないですよ!どいてーーーーーー!!」
死に物狂いの斬り合いをする信親と元春に向かって、炎の刃が襲いかかる。
制御できないらしい隆景は慌てて采配を引き戻そうとするが、ばっさばっさと束になっているそれは見た目よりずっと重い。
ぐら、と体重を持っていかれて、結局ふたりのいる方への攻撃が止まらない。
「あーあーあー」
ダメだこりゃ、と首を振って、元親がゆっくり歩き出した。
「どうするのだ、邪魔をするのか」
「なあ、毛利」
振り返って、動こうとしない元就を見る。
端正な顔立ち、あまり動かない表情。影武者の隆景と間違えるようなことはやはりあり得ないな、と元親は思う。
そりゃあ、この顔で、隆景のようにくるくると動く表情を見てみたいとも思うけれど。
恥ずかしそうに目を伏せたり、泣きそうになったり、顔を赤くして怒り狂ったり。
見たいけれど、それでも、動かない表情の中で豊かに心の揺れを表現する美しい目が何よりも好きだった。
感情を読みとるのも慣れた。怒りながら本当は機嫌が良かったり、嬉しそうにしていたり、本当は悲しかったり。
それを知るのは自分だけでいいという独占欲にも似た。
「あいつらは大丈夫だよ。俺たちがジジィになって死んじまっても、きっとこの海を守って行ってくれる」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「信じてやれよ。それに信親は本気で隆景に惚れてるみたいだぜ?毛利家ごと守ろうとするだろ」
「ふん、くだらぬ。あれは大事な駒よ。誰にもやらぬ」
「ははは。信親も面倒なやつに惚れちまったな」
ああそれは俺も同じか、と豪快に笑って、阿鼻叫喚の騒ぎの中へ突っ込んで行った。
「おおい元春!さっきの続きといこうや!」
「げっ」
碇槍を振り上げ、炎に包まれた床板を踏みしめて元親が走って行く。
信親の攻撃と隆景の火を避けながら、元春が振り返る。
「あんたを相手してる場合じゃねえんだよおっさん!!」
「減らず口叩きやがる。口が悪いのも元就譲りかい?可愛いねえ」
いきがってまぁ、と苦笑いしながら、大股で歩み寄り、相手をする暇などないと言いながらも向かってくる元春を睨み据えた。
がきぃ、とふたつの槍が交差し、体格差はあるものの元春とて容易に押し戻されはしない。
元春の片鎌槍ほぼ中央を元親の碇槍が叩き割る。だがちょうどそのタイミングで片鎌槍は二本に割れて、二刀流となった。
ぐ、と揺れる床板を踏みしめふたつになった槍を突き出す。一本は足元を払い、一本は胴の急所へ。
じゃら、と鎖を鳴らしながらそれを打ち払ったところへ顔面めがけて素早く次の一手が繰り出される。
不安定な足元と、とっさに目をつむってしまう顔面への攻撃は最も相手が嫌う技だ。その代り隙も大きくなる。
「うらぁ!!」
「まだまだ経験が足りないぜ小僧!俺を倒したかったらまずあんたの大好きな元就さま相手に十本とってからだな!」
「黙れ海賊めが!軽々しく元就さまの名を口にするな汚れる!」
十本中三本は取れる。正しくは取れるようになった。
だからこそ、元春は元就にその実力を認められていると自負している。
それでもまだ足りない。それはきっと、先の先を読む力だ。そして戦に勝つために自分は引いても良いとする柔軟さ。
一騎打ちでも合戦でも勝ちたい、とする元春にはその見極めが難しい。どちらも勝ちたいし負けたくない。
だが、負け戦であってもそれは次の戦への布石だったりする。
「それでも・・・・・・それでも!俺はあんたに勝ちたい!元就さまは渡さない!」
「ほんっとおまえらって・・・・・・」
主君のこと好きすぎだろう!と呆れながら、笑い転げる元親だった。
一方、ごうごうと燃える采配の炎は、あわや船全体を焼きつくそうというところで毛利・長曾我部両軍の必死の消火活動で何とか最小限にとどまっていた。
常日頃敵対している兵士たちが、桶の水を汲んで手渡しあう光景はなかなか珍妙なものがある。
元春はともかく、信親と隆景のふたりが対峙していてもそれほど殺伐としないのはそこに憎悪のかけらもないことを知っているからで、ふたりの若い武人を置いてけぼりにしても兵士たちは知らぬ顔で桶リレーに没頭するのだった。
「・・・・・・あの、隆景殿、危ないですよ」
おろおろと指差す床板は真っ黒に焦げて、小さな火の塊がいくつも転がっている。
隆景の沓の先や狩衣の裾も少し焦げていてかわいそうだ。
それを指摘すると隆景は一瞬綺麗な顔を歪め泣きそうになったが、すぐにきりりと表情を変えた。
「かまわないでください。それより、兄上は長曾我部殿とやりあっていますので、今一度私と手合わせ願えますか信親殿」
「隆景殿・・・・・・」
はっきりと眉尻を下げて信親は立ちつくす。
「あなたは海賊でしょう?欲しいものがあるなら奪うのが仕事ではありませんか。厳島の宝物殿の鍵だって、そうしようとしたでしょう。それに」
それに、長曾我部元親殿はそうやって元就様を奪ったではないか、と言う。
どう見ても奪ったというより手懐けられたようにしか思えないのだが、これは「心を奪っちゃいました」とかそういうものなのだろうか。
「いざ!」
「あ、隆景殿!」
制止する間もなく、采配を掲げて隆景が走り込んでくる。
大きく振り上げたそこから真っ赤な炎が舞いあがり、采配にとどまるそれを信親へと払う。
それはまっすぐに信親へと向かってきた。
炎の塊を避けながら、信親は真っ直ぐに走りよる。
ぎょっとしてあとずさろうとする隆景の腕を掴むと、ごうと音をたてていまだ燃え盛る采配を奪った。
「返して下さい!」
それは大事なもの、と慌てて奪い返そうとするのを、背伸びして高い位置へと掲げる。
隆景はぴょんとジャンプしてそれを取り返そうとするが元からして背丈が違うのだからどうしようもない。
ぎり、と睨みあげる目は本気だった。
一瞬怯んだが、けれどその瞳の奥にちらちらと燃える怒りの火が美しい、と思った。
このような顔もするのだな、と思うと、心の底にぶわっと得体のしれない熱い塊がうごめくのを信親は感じた。
「信親殿!」
叱咤するような厳しい声音が耳を打つ。
凛とした神聖さすら感じる涼やかなそれ。
ああ、きっとアニキも元就公のこんなところにやられちゃったんだな、と思うと、やはり血は争えないと苦笑する。
まさか二代に渡ってこうも面倒な恋をするなんて。
「隆景殿」
唇を噛みしめながら怒った顔をしている隆景に、信親はそっと采配を手渡した。
「あ、え・・・?」
何故、ときょとんとしながら、隆景はとっさにそれを受け取った。
いつの間にか火は消えていて、それはただの白い神器となっている。熱さすらもう伝わらない。
「俺は、いずれアニキから受け継ぐ国と、この瀬戸海を守りたい」
「・・・・・・・・・ええ」
知っている、と言うようにうなずく。
何を言い出すのかと見上げる顔はさきほどの怒りは失せていて、戸惑いの色があった。
「アニキと元就公は何度も戦を繰り返してきた。戦いながら理解し合うこともたくさんあったでしょう。そういう絆も、あるんだと思います。あ、これは徳川殿の受け売りですが」
第三者からすれば単なる小競り合い、犬猿の仲、としか思えないふたりは、いつの間にか寄り添うようになっていた。
それでも頻繁に小競り合いを繰り返しては本気の喧嘩をしているけれど、そうかと思えば次の日には一緒に朝日を眺めている。
「でも俺、あんまり戦は好きじゃなくて」
武士としてはどうかと思われる発言をさらりと口にし、頭をかいた。
「・・・・・・それは私も、同じです。平和に静かに暮らせるのならそれが一番でしょう」
「そうですよね、俺もそう思います!」
ぱっ、と顔を輝かせ、信親は隆景の手を握った。
ぎょっとして僅かに身を引いたが、隆景は振りほどかなかった。
悪意も押し付けがましい情も感じなかったからだ。単に、同じ考えの人間に出会えて嬉しいと喜ぶ子供のような仕草で、嫌がる理由がない。
驚いたような、ちょっと困惑したような、そんな表情の隆景の手を握り締めたまま、信親は言った。
「同じ瀬戸海を守るために、仲良くしたいんです!だから隆景殿、俺と」
「結婚はできませんが仲良くすることは可能だと思います」
先回りして言ってのけにっこり笑うと、信親ががくりと項垂れた。
くすくす笑いながら顔をのぞきこむ。
「けれど、隆元兄上はともかく・・・・・・元春兄上が、ちょっと、そのー」
「ああ・・・・・・。それに元就公ですよね。でも俺個人を嫌ってるのって元春殿だけですよねきっと。何とかなりますって、だぶん」
きっと、とか、たぶん、とかどうにも頼りない発言を繰り返しながら、信親は素早く隆景の腰に手をまわすとひょいっと抱えあげた。
「うわっ!?ちょ、何するんですか!」
完全にお姫様だっこ状態である。
これには、ふたりを遠巻きに見ていた兵士たちも慌てた。
まさか隆景を浚って行こうとでも言うのかと小早川水軍や毛利軍たちが色めきたつ。
「信親殿、降ろしてください!」
「あ、すいません。でもほら、そこらじゅう床に穴があいていて危ないですよ」
そんな沓じゃ踏み外した時海に落ちてしまう、と言いながら、隆景を抱きあげたまま得物を構える毛利兵たちの間を縫うように大股で歩いて元就の方へと進んでいく。
遠くの方で元春の怒号と元親の笑い声が響いてくるが気にしないことにした。
好きなだけ暴れればいいのだ。きっとあのふたりはどこか似ている。
三兄弟が崇拝する元就公をアレコレしちゃったアニキが恨まれるのは当然だろう。その怒りが今度は自分に向かってくるようになったのかと思うと若干おそろしいが。
こちらをじっと見ている元就のそばまでくると、信親はそっと腕の中にいた隆景を降ろした。
隆景は一度少しだけ体を揺らして体勢を崩したが、信親が手を添える前にさりげなく元就が背を支えてやる。
無表情の中に満足そうな感情を読み取れた気がした。
「まだまだ修行が足りぬな」
「・・・・・・はい」
申し訳ありません、とうつむく隆景だったが、元就はその頭を軽く叩いただけでそれ以上何も言わなかった。
「・・・・・・長曾我部信親よ」
「はい」
低く名前を呼ばれて直立不動で顔を上げる。
自分より低い位置から睨みあげられる。
怖い。
アニキはよくこんな怖い美人をアレコレできるなあと思うと、やはり心の底から尊敬するのだった。
自分なら無理だ。まだ死にたくない。
「貴様の実力を全て見たわけではないが、次代国主としての器を針の先ほどならば認めてやらんでもない」
「あ、ありがとうございます」
針の先?そんだけ?と思いつつとりあえず礼を言っておく。
毛利元就の機嫌を損ねれば何が起こるか分からない。
「ふん。まあ良いわ。せいぜい励むがよい」
それだ言うと、元就はすっかり信親には興味を失ったように、背を向けて歩いて行ってしまった。
慌てて数人の近習たちがそれに続く。
「あ、あのー・・・・・・」
どうしようか、ときょろきょろする信親に、隆景は微笑んだ。
「あの、今度茶会でもいかがですか、信親殿」
「!?行く!行く行く行きます!どこへでも!!」
大きな体を丸める様にして隆景と目線を合わせながらうなずく信親に笑いかけながら、まるで大きな虎が懐いているみたいだなあ可愛いなあ、などと思う隆景であった。
ふたりの主君たちに比べれば、まだずっと平和な光景である。
遠くでどぼーん!と大きなしぶきがふたつ上がったが、やはりふたりは気にしないことにした。