常に静かな館内で最初に違和感に気づいたのは毛利家次代当主隆元だった。
肌がぴりぴりして、なにやらただならぬ気配を感じる。
よもや呪術かあやかしの類か、と不安を抱きながら、政務を行う部屋から出て庭を見渡せる廊下へと出た。
すれ違い様に深々と頭を下げる女たちに曖昧な笑みを浮かべながら、やがてこちらへとやってくる人物に気付いて立ち止まった。
「元春」
「あ、兄上」
気安い調子で片手を上げながらやってきた弟に笑みを返しつつ、隆元は小さく眉間に皺を寄せた。
「何やら空気が騒がしくないか?・・・何かあったのか?」
わざわざ居城である日野山城からここへきているということは呼び出されでもしたのだろう、と見当をつけて尋ねると、元春は頭をかきながら嘆息した。わずかに不機嫌そうな表情を浮かべる。
「何かあったもなにも・・・さっき三の丸付近で騒動があってさ。それより早く本丸に行こう」
「ちょ、ちょっと待て、三の丸で騒動って、」
さらりと聞き流しそうになったが、それは大変なことではないのか。大事件である。
郡山全体に広がる形で拡大に拡大を重ねた堅牢なこの山城を襲撃となると、よほどの軍勢が攻めてきたことになる。これほど落ちついていていいものかとも思うが、腕を引っ張るようにして先を歩く元春の歩調はどちらかと言えば面倒だなぁという風に見えて。
「敵襲ではないのだな?」
「もしそうならこんなのんびりしてないでしょ」
そりゃそうだ。
「何があった?元就様は?」
「行けば分かる。ああ、でも腰を抜かすかもしれないから先に言っておいた方がいいか」
本丸へ続く回廊でぴたりと足を止め、元春はおろおろしている兄に向き直った。
落ちついて聞いてくれよ、と僅かに腰を落として目線を合わせ、両肩に手を乗せる。
「隆景が海賊に拉致られたらしい」
兄を肩に担いで本丸の元就の居館へとやってきた元春を見て、出迎えた毛利家家老の桂元澄は思い切り苦笑した。
「ああ、大丈夫ですか?」
「こうならないように俺が先に教えて差し上げたのに、その場で卒倒しちまった」
「でしょうねえ」
代わりましょうかとも言わず、あっさりうなずいて桂はふたりを広間へ通した。
さすがにざわめきが大きくなり名だたる毛利の重臣や身内らが集まってきている。
上座には小柄な狩衣姿の男が頭を抱えるようにうずくまっており、彼の傍らで宥めているのは毛利家執権の志道である。
「もももももももももも元就さま・・・・・・・ッ」
はっと我に返った隆元が慌てて元春の肩から飛び降り駆け寄って、数秒の後かくんと膝を折って座り込んでしまった。
「兄上?」
どうしたんだよ、と元春が駆け寄り、彼らを取り巻く家臣たちがしんと静まりかえる。
志道に肩を支えられて顔を上げたのは、
「・・・・・・た、隆景?」
「え?えええええええええ!?」
呆然と隆元が名を呟き、元春をはじめとする志道以外の人間が一斉に叫び声を上げた。
「ああああああ兄上エエエエエエエ!!ど、どうしましょう、どうすれば、どどどどど都都逸!!」
「落ち着け隆景、おまえ隆景だよな?え、おまえ拉致られたんじゃなかったのか?どうせあの長曾我部のことだしすぐ気付いて無傷で返してくれるだろうと踏んでそれほど気にしなかったんだが」
「いえそこは気にして下さい」
あの好色色欲魔人の海賊の毒牙に隆景様がかかったらどうするんですか!などと誰かが怒鳴った。
隆景様、と背中を撫でられながら、元就に瓜二つの顔で隆景は涙をほろほろと流す。
「そ、それが、元就様はこれも策の内とおっしゃられて・・・・・・」
「策?策って言われても。おまえたち何か聞いてるか?」
呆れたように元春が周囲を見渡しながら聞いても、誰ひとり答えず首を捻るばかりだ。
「いくら元就様とて我らに何の相談もせず兵を動かせなどと言われるはずが・・・あ、いや・・・・・・」
「むしろ通常運転では?」
片膝をたて言い募ろうとした家老だったが、途中で尻すぼみになったところで高松城から駆け付けた清水が突っ込んだ。
「そうか・・・・・・。元就様が隆景のふりをして西海の鬼を油断させつつ内部を探り、俺たちが兵を率いて奇襲をかける。そういう作戦なんだな!さすがは元就様だ!!」
ぽん、と膝をうって元春が目を輝かせる。
さすがは武勇だけなら元就をもしのぐと言われる猛将、血の気が多くとりあえず戦場に立てればそれでいいらしい。
「兄上、兄上には次期毛利の要として本陣を守っていただかなければなりません。四国攻めおよび元就様救出の作戦は俺に指揮をとらせて下さい」
「え?ああ、うん、え?」
いまいちついていけていない隆元はおろおろするばかりで、きょろきょろしている。
「よし、隆景、おまえは水軍を率いて村上と協力し長曾我部軍の船を壊滅させろ。いいな」
「うっうっ元就様・・・・・・」
大丈夫なのかこの三兄弟。
いやきっと大丈夫なのだろう。なんだかんだ言ってこれまでなかなか上手くやってきた。
もちろん元就の采配あってのことだろうが、一見アンバランスな三人でもまとまればそこそこバランスがとれてしまうのである。
個性と個性がぶつかりあい何となくまっすぐ立っているように見えているのかもしれない。
猪突猛進な武勇の元春が突っ込んでいき、冷静な判断と水軍の力で隆景がそれを支え、背後を隆元がしっかり守る。
これまでと同じようにやればきっと四国のひとつやふたつやみっつ、落とせるに違いない。
彼らはそう信じて疑わなかった。
一方そのころ、四国は岡豊城。
賓客をもてなすために使用される部屋の隅っこで、元就は膝を抱えて壁に寄り掛かったまま思案に暮れていた。
さて、彼らはうまくやれるだろうか。
吉田郡山の三の丸へ侵入したのは確かに海賊であったが、西海の鬼長曾我部元親ではなく彼の配下たちだった。
その中心には長曾我部の後継者と目される青年もいて。
ちょうど厳島から戻ってきた元就と、彼を送ってきた隆景、そして少数の護衛のみで移動していた彼らはあまりにも素早く包囲されてしまった。
さすがに毛利の拠点をいきなり襲撃されるなど思いもよらず、だが利は当然こちらにある。
兵を呼ぼうとする毛利方だったが、このとき元就は輪刀を所持しておらず、また腕の立つ護衛もほとんどいなかった。
それでもたかが海賊などに簡単にやられる男ではない。
腰に差した刀でやりあっているうちに、どよめきが響いて山の木々が揺れた。
「すまない、おとなしくして頂けないか」
大柄な青年が申し訳なさそうに隆景の腕を掴んだ。
采配を帯に差したまま刀で応戦していた隆景だったが、元より剣の腕はそれほどではない。
智の隆景が前線で自ら戦うことはまれである。
護衛の兵士たちや元就が振り返った。
隆景は悔しそうに唇を噛みしめ、自分よりひとまわり近く大きな体の青年を睨み上げる。
何か言おうと口を開く前に、元就が刀を引いて、鋭く制した。
「待て」
同じ顔が並ぶ。
青年の顔に迷いが浮かんだ。
元就は確信する。この男は見極めがついていない。何を命じられて襲撃してきたかは分からないが、元親でないことが幸いだろうか。
「そなたらの目的は何だ?」
「・・・・・・厳島の宝物殿の鍵」
「・・・・・・・・・・・はぁ?」
「いや、本当は港についたところを隙をついて襲撃しようと思ったんだけど意外と人通り多いし騒ぎになるのもまずいと思って。様子うかがってつけてるうちにここまで来ちゃった」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
てへっ、と言わんばかりに間の抜けた面を見せる青年に、呆れて元就らは黙りこんだ。
「海上で仕掛けるつもりはなかったのか」
「無理。戦をしたいわけじゃないし」
配下なのだろう長曾我部の男たちもへらへらと笑っている。
「・・・・・・長曾我部元親の命令か」
「うーん。半分正解。アニキは厳島を攻めた方が早いって言うけど、俺はあんまりそういうのはちょっと。罰が当たるのは嫌だし。欲しいのは宝だけだから、鍵もらってこっそり侵入して中身だけ頂いちゃった方が平和的じゃないですか?」
馬鹿だ。
阿呆な国主の次代もやっぱり阿呆だった。
ふぅ、と嘆息すると、元就は刀をゆっくり鞘に戻した。
「良かろう」
「え!?」
元就様、と言いかけた隆景をひと睨みして黙らせると、ゆっくりと進み出る。
懐から取り出したのは細やかな装飾が施された小さな鍵だった。
「これは厳島と毛利の領海を守る小早川水軍の将が肌身離さず持ち歩くもの。これだけやるわけにはいかぬ。だが」
と、腕を掴まれたままの隆景を見る。
「だが、大事な我らの主を人質にされても困るのでな。鍵ともども我が行く」
「え」
全員がぽかんとして、それぞれ得物をひいた。
「ええと、つまりあなたは小早川水軍の将で、毛利元就殿の影武者の小早川隆景殿ですか?」
「そうだ」
こうして元就は隆景のふりをして、青年たちに連れられ四国へとやってきたのであった。
だが岡豊城へ連れてこられると肝心の元親が不在だった。
どうやらふらりと釣りに出掛けたまままだ戻らないらしい。
仕方なく、元就は外に見張りはつけられているものの賓客待遇でもてなされているわけである。
主が影武者の代わりになるなど前代未聞だ。普通逆である。
だが元就には常々気にかけていたことがあったので、良い機会かとも思った。
「果たして我がおらずとも毛利はやっていけるのか」
隆景を青年から離す際、すれ違いざまに耳元で囁いた言葉の意味を、きちんと理解しているだろうか?
まさか、元就救出などと情に流された戦など仕掛ける気はないだろうな、と少し心配である。
これは好機だ。内部から長曾我部の城を探ることができる。
さて、ここから先どう出るかは元親次第だろう。元就を元就だと認識するか、隆景だと思うか、それとも。
「我が毛利元就だと気づいておきながら隆景として扱うか」
表向き、小早川隆景を連れてきた、ということになっている。
少なくとも長曾我部の人間はみなそう思っている。
おそらくそれほど時を置かずして、毛利方から『小早川隆景の速やかな返還』の要求が来るだろう。
同時に開戦となるか否か。
采配を振るう主なくして、立ちまわれるだろうか。
部屋の外で人の気配を感じた。
障子の向こうで、律儀に声がかかる。
「失礼する」
聞いた声だ。
短く答えると、遠慮がちに大柄な男が入ってきた。
「先ほどは名乗りもせず失礼しました。長曾我部信親と申します」
漆黒の髪は潮にさらされることが多いせいか艶を失っており、ばさばさだが海の男としての貫禄はじゅうぶんだ。
土佐の人間らしく体つきは大柄でたくましく、元就から見れば粗野な印象しか受けないが、おそらく気安い性格をしているのだろう。
だが阿呆である。一応の礼儀は知っているようだが、阿呆に変わりはない。
「鍵は渡せぬ」
「まあ、そうですよね・・・・・・」
これだ。
海賊なら、海の男ならば無理にでも奪ってみろと思う。元親ならそうするだろう。
元親なら、元親なら、元親なら。
ふと、そればかり考えている自分に気付いて知らず頬を赤らめた。
何故あの男のことばかり。しかも目の前の阿呆とあの男とを無意識に比べている自分がいる。
(愚劣!)
「あの、」
ずいと膝をつめて、信親は意を決したように顔を上げた。
「宝物殿にはどんな宝があるんです?」
「・・・・・・知らずに略奪しようと思っていたのか」
「アニキが」
だって、と大の男が、しかもでかい図体をした海賊の次期頭領が唇を尖らせたところで可愛くもなんともない。
気色悪いだけだ。
「どうしても欲しがってるんだよなぁ。そのくせ本気で獲りに行かないんです。何度厳島を攻めても決着がつかない。毎回そうだ。まるで」
と、じっと元就を見つめる。
居心地悪く、ふいと目をそらすと、どこか元親に似た目つきで(ほら、また比べている)少しだけ笑った。
「まるで、わざわざ元就公と戦うためだけに、ちょっかいを出しているみたいで。同盟を結んでも、破棄しても、アニキは元就公に会いに行く。不思議なんですよね」
「不思議、とは?」
何も分からないふりをしなければならない。
隆景ならどうするだろうか。
普段なら、影武者として隆景が「元就様ならどうするだろうか」と考えるだろう場面だ。それが少しおかしい。
僅かに首を傾げてみる。
柔らかい髪がさらりと頬をすべり、首筋を隠した。
信親が息をつめて凝視しているのを認める。ああ、やはり似た目をしている。
「否、よく分からないことを喋ってしまった、申し訳ない」
苦笑して、すでに信親は元の、少しばかり頼りない、愛想の良い男の顔つきへと戻っていた。
やがてどたどたと荒だたしい足音がして、遠慮もなしに障子が開かれた。
「おう」
挨拶だか何だか分からない声を発しながら、四国の主、長曾我部元親その人が入ってくる。
「アニキ」
「毛利の水軍の将を浚ってきたって?何だってそんなややこしいこと・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
はた、と視線が交わる。
元親の動きが止まった。
元就は動かない。じっと黙って座ったまま、元親を睨んだ。
「アニキ、どうしたんですか?」
会ったことありますよね、小早川隆景殿です。
そんな信親の声すら届いていないようだ。
「・・・・・・ああ?何でおまえ、」
「長曾我部殿」
元親をさえぎり、元就はぴんと背筋を伸ばして向かい合った。
元親はぎょっとした顔で口をつぐむ。
「貴殿の出方次第では我が毛利を相手に一戦交えることになる。毛利は小早川を見捨てはせぬ。毛利の未来を支える翼の一枚なれば」
「いや、待て。待て待て。おい信親」
なおも何か言い募ろうとする元就を無理やり制し、元親は後ろに控える信親を見た。
「おまえ、なんでこいつ連れてきた?」
「え?いや何でって。野郎共の説明聞かなかったんですか?厳島の宝物殿の鍵を奪おうと思って、でも隆景殿がくっついてきたから」
人をおまけみたいに。
むっとしてなにか言いかける元就を、やはり元親はさえぎった。
「いやだから、こいつ違うだろ?おまえ毛利の御大将連れてきちまったんだぞ!」
「・・・・・・・・・・・・・・え?」
「え、じゃねーよ!どうするんだよコレ!!影武者浚って代わりにお宝寄こせならまだいいけど中国の国主拉致はまずいだろ!たぶん今頃」
「今頃戦の準備をしているであろうな」
冷やかな声が広い部屋に響いた。
「・・・・・・・・え、でも、アニキ」
しどろもどろになりながら信親があたふたと両手を動かした。
「この間言ってたじゃないですか。影武者と元就公本人の見分け方!色っぽい方が本物だ、いい匂いがするって」
「言った!」
そんな判別法あるか!!
元就は怒鳴りたいのをぐっと堪えながら、いらいらと畳に爪をたてた。
阿呆の国主には阿呆な臣下しかいないらしい。どいつもこいつも!
「だからあっちが本物だと思ったんすよ!だって腕掴んだときの・・・・・・」
そこで何故かかっと顔を赤らめて、信親はでかい図体を丸めてもじもじし出した。
非常に気色悪い光景である。
「腕掴んだとき、ああこれがアニキの言う、色気だって思って。細かったし、それにすごくいい匂いがして」
「いやいやいや。いやいやいやいやいや」
脱力して、元親はがっくりと畳にうずくまり頭を抱えている。
頭を抱えたいのはこちらの方だ、と元就は理不尽な怒りを覚えた。
信親のせりふはつまり、元就より隆景に色気とやらを感じたということになる。
(我が?あやつに劣ると?)
そう言う問題ではないのだが、元就にしてみればひどくプライドを傷つけられたようなものだ。
いくら同じ顔をしているからといって別人である。本人より影武者に心を動かされたこの男、果たしてどうしてくれようか。
「何だ違ったのか。俺間違えたのか・・・よかった」
「何が良かっただ!」
「何を言っておる貴様!!」
同時に怒鳴り散らし、はっとして顔を見合わせ、そっぽ向いた。
それを見て信親は何故か嬉しそうににこにこしている。
「いやだって、アニキが惚れた人と被らなくて良かったーって思って」
「・・・・・・・・・・うん?」
今何か不穏な発言をしなかったか。
顔をひきつらせる元親・元就の両人に、信親は実に爽やかな顔で笑った。
「さすがに、アニキとおなじ人好きになるのはちょっと、問題あるだろ?」
くらっ、と眩暈を感じたのは、おそらく元就だけではなかっただろう。