毛利家事変 零






 穏やかな波の上、心地よい揺れに身をまかせながらも、元親は正面を見据え険しい表情を浮かべていた。
 目の前に立ちはだかるのは毛利の船だ。舳先に凛と立つ細い影はよく見知ったもので。特徴的な兜、鳥の翼のような大袖、踵の高い沓。
 唯一普段と違うのは手に持っているのがいつもの輪刀ではなく采配であることか。遠い昔にその采配を振るい炎を舞い散らせている姿を見たことがある。
「よう毛利。久し振りじゃねえか」
「ふん、貴様の戯言につき合う暇はない。我の言いたいことは分かっているはず。早にこの海域を離脱せよ。さもなくばここで貴様の船を沈める」
「言ってくれるじゃねえか。ここがてめぇの領海だなんて俺は認めた覚えはないぜ」
「では死ね!」
 キリ、と弓を絞る音が微かにして、元親は後ろに飛んだ。次の瞬間それまで立っていた場所に次々と矢が突き刺さる。ずらりと並んだ毛利の弓兵が元親ひとりを狙っていた。
「アニキ!」
 野郎共が次々と甲板へ躍り出て思い思いの得物を手に毛利の船を睨みつける。
「また毛利かよ!しつこい奴らだぜ」
「ここいらで一発でかいのお見舞いしやしょうぜアニキ!」
 拳を振り上げ男たちが息巻いた。
 元親は口元に不敵な笑みを浮かべると力強く腕を振り上げる。
「辛気くせえ毛利軍なんて攻め落とすが瀬戸海のためだ!撃て!!」
「アニキー!!」
 大筒が毛利の船にむけてどでかい一発を放つ。
 だがすでに予測していたのだろう、砲撃準備が終わる前に、毛利の船は転身しており免れた。
「けっ、いつもいつもちょろちょろ逃げやがって。恥ずかしくねえのかよ毛利さんよォ」
「くだらぬことを申すな。そこまで言うのであれば我が相手になろうぞ!」
「元就様」
 采配を振り上げた元就に、そっと近づいて重臣らしき初老の男が囁く。
 微かに気遣うようなその表情に、元就はそっと首を振って何事かを囁くと切れ長の目を細めて下がらせた。
(ん?)
 何だ、と考える暇もなく、双方の船に渡り板が通されて白兵戦が始まる。もう何度も繰り返してきたことだ。だが何となく、言い知れぬ違和感がある。
 元親は目の前に降り立った元就をじっと観察するように見つめた。
 元就は手にした采配を掲げながら元親を睨み上げる。
 いつも同じ表情、同じかたち、同じ口調。だが、いつもと違うもの。
 手に持っている采配。手を伸ばしても届かないほどの距離を保ちこちらを見ている元就の、潮風にのって漂う香り。
(香り?)
 思い立つと元親の行動は素早かった。
 決して近づこうとしない元就へと踏み出し、跳躍してまじかに迫る。碇槍を持たない方の手をぐいと伸ばして胸倉を掴んで引き寄せると、予想だにしないその行動に元就が面喰ったようにぽかんとして顔を赤くした。
「なっ、何をする!無礼な!」
 慌てて振り払おうと元親の腕を掴むがびくともしない。
 元親は息がかかるほどの距離まで顔を近づけて、口をぱくぱくさせている元就の首筋をくんくんと嗅いだ。
「うーん、おかしい」
「なっ何だ貴様!離れろ変態!死ね!瀬戸海で溺れて死ね!」
 必死でもがきながら罵詈雑言を浴びせつつ、采配でびたんびたんと元親の顔や体を殴りつける。
しかしひらひらが当たって痛いものの、昔その目で見た炎は噴き出さず、それが遠慮からくるものではないのなら理由はひとつしかない。
 元親はにやりと口元に笑みを浮かべると、その細い体をひょいと抱えあげた。
 毛利・長曾我部両軍の兵士たちが唖然とそれを見守る。
 一瞬の静寂の後、けたたましい怒号がそこかしこから・・・特に元親の腕の中から聞こえたが、元親はそれを全て無視して、がん、と碇槍で船底を突いた。
「いいかてめぇら!こいつは一時俺が預かる。安心しな怪我させるつもりはねぇからよ。しばらくしたら返してやるからおとなしく引き下がるんだな!」
 つまり人質だ。
 毛利方の重臣らしき男がわあわあと喚いている。
「ど、どういうつもりだ」
 微かに震えているような声が耳元でして、元親は苦笑した。
 肩に抱えあげた体をぽんぽん、と軽く叩いて、
「ちょいとばかり付き合ってくれよ」
 それだけ言うと最も高く、最奥にある部屋へと彼を運んで行った。



 どさっ、と板の間に転がされて、元就はとっさに受け身をとることができず、ごん、と後頭部をうった。
「痛ッ」
「おいおい大丈夫かよ」
 ほら、と背中を支えてやろうとすると、ぴしゃりと白い手ではたかれる。見れば采配は放り出されていて、抵抗する気もないようだった。
「一体何のつもりだ長曾我部」
「何って言われてもな。やけにあんたおとなしく捕まったじゃねえか」
「そ、それは」
 一瞬悔しげに表情を歪ませて、ふいと顔をそむける。
「斯様な瑣末な戦、貴様も本気ではないと思ったまで」
「ふうん」
 確かにお互い領海だと譲らない争いはいつものことで、わざわざ元親自ら船に乗り込んだのもたまたま近くで釣りをしていたからで。
「あんたがわざわざ出てきた理由は?いつもの変な武器はどうしたんだよ」
 変な武器、と言われて元就がかっとして顔を上げる。
「あれは修理中だ!今日は・・・、厳島で一月後に執り行われる神事の準備があるゆえ・・・」
 しどろもどろになりながら、元就は放置されている采配を手繰り寄せ、いじりだした。
 何だかなあ、という気分になりながら、元親はついと手を伸ばすと床に座り込んだままの元就を抱き寄せた。
 ぎょっとした顔をするのをおかしく思いながら、二人きりの時はいつもそうするように、優しく背中に腕をまわして柔らかな髪に鼻を埋める。腕の中で硬直する華奢な体がびくりと跳ねた。反応が初々しい。
「隠し事を披露するなら今のうちだぜ?」
「な、何のことだ。まるで意味が分からぬ」
「ふうん。へぇ。そういうこと言うのか。ま、いいけどな俺は」
 意味ありげな笑みを深くしながら、がちがちに緊張しているような体をゆっくりと床に押し倒し圧し掛かる。あんぐり口を開けてされるがままになっていた元就だったが、元親の銀色の髪が頬に触れたのに気付くと暴れだした。
「なっ、や、やめろ!」
「何だよ、いつもやってんだろ?」
「いつもだと!?」
「そうそう」
 あんたここ好きだよな、形の良い耳を甘噛みするとひぃ、と細い悲鳴が上がる。元親の厚い胸板を押し返そうとするが全く力が入っていない。耳の穴に舌先を入れて見れば、あ、という甘い声がして、けれどやはりいつもとは違う違和感が溢れていて。
 元親は、嗜虐心というよりも悪戯心の方がむくむくと勝って、楽しくなってしまった。
するりと狩衣の隙間から手を差し入れながら、最後の通告とばかりに囁く。
「いいのか?本当に?」
 顔をのぞきこむと、切れ長の目がはっきりと潤んでいて、少しやりすぎたかと反省する間もなく背後から思い切りどつかれた。
「うぉわ!?」
 下にいる元就を潰さないように両腕でかばいながら振り向くと、そこには鬼のような形相をした元就がいつもの輪刀を提げて立っている。
「表出ろこの色魔海賊」
「おい!」
 妙なあだ名つけんな、と思い切り蹴られた背中をどうにかさすりつつ、ゆっくりと立ち上がった。
「もうちょっと様子見てても良かったんだぜ?あんたと違って反応可愛かったしなァ?」
「ほう。やはり気付いておいてその仕打ちか。貴様本物の鬼だな。それも色欲に溺れた汚らわしい鬼よ」
 と、汚物でも見るような目で、狩衣の袖で鼻を覆い思い切り嫌そうな顔をした。
「元就様・・・」
 今にも泣きそうな声がする。
 押し倒された床にどうにか体を起こしはしたものの、ショック状態から立ち直れないその男はおろおろとした表情で元就を見上げていた。
「ふん。まあ仕方ない。さっさと立て隆景。早うその色魔から離れろ。犯されるぞ」
「おいぃい!!」
 さっきからひでぇ、と喚きつつ、だが罵倒されても仕方のないことは重々承知である。
さきほどまで腕の中で震えていた元就、と同じ顔をしたその男は、よろよろと立ち上がり、元親の近くをきっちり三歩分ほど距離をあけてぐるりと迂回すると元就の後へと隠れた。
「・・・元就がふたり」
 ごくりと唾を飲み込む。
 全く同じ容姿をした人間がふたり。しかも見とれるほどの美人だ。たとえそれが男であろうと、物騒な得物を手にしていようと、極上の宝が並んでいることに違いはない。
 元就はぎりぎりと目の前の鬼を一睨みすると、わずかに振り向いてひっついている隆景の背を軽く撫でた。
「何もされなかったであろうな」
「あ、あの。耳を」
「何?」
「み、みみ・・・」
 耳に舌を入れられました、などと言えるはずもなく、隆景は再びじわりと目を潤ませる。
(うおっ!可愛いなおい元就と同じ顔して可愛い反応だぜちくしょう)
 だが元就がこんな反応をする男だったら惚れていただろうか。否、あまりに可愛すぎてかえって手出しできないに違いない。愛でる方向性が違う。
「なあ、そいつあんたの影武者だよな。この間の海戦で見かけたやつ」
「いかにも。我の影武者にして小早川水軍の将よ」
 よしよし、と背中を撫でる手つきが優しい。それが自分と同じ顔をしているからなのか、他に理由があるのかは知らないが、可愛がっているのは確かだろう。
「何だよ影武者なんか立てやがって。いやすぐ気付いたけどな」
「なに?」
「え?」
 意外だ、と言わんばかりに元就と隆景が同時に声をあげた。
 同じ顔して同じ反応をするふたりを目の前に、元親はそれこそ呆れた顔をした。
「本当に俺を騙せると思ってたのか?」
 俺は元就の全てを見てるし味も知ってるし匂いも知ってるんだぜ、と自慢げな顔をする。
 見る間に元就は顔を(怒りで)赤く染め、隆景も(破廉恥すぎて)赤くなった。
「焼け焦げよ!」
「た、耐えられません、元就様、私もう離脱していいですか!?」
「おおお」
 今度は全く正反対の反応を返してくるふたりに元親は感動を隠せない。
「こうなったらふたりまとめて面倒見てやるぜ!」
「死ね」
「死ね」
 冷やかな罵倒と、泣き声混じりの罵倒に、元親は恍惚の笑みを浮かべた。
 こいつらに挟まれてくんかくんかしたい。


*          *          *


「申し訳ありません、申し訳ありません」
 平身低頭で謝罪する隆景を前に、元就は深いため息をつくしかなかった。
 手にしていた扇子でぐりぐりと自身の眉間のしわを伸ばしながら、脇息にもたれる。
「しかし・・・あの男は騙せぬとすれば何か手だてを考えねばなるまい」
「申し訳ありません」
「もう良いそれは聞き飽きた。そなたも我が毛利の重要な駒なれば、少しは知恵を巡らせ」
 容姿が似ているだけではダメなのか。
 考え込む元就に、隆景は背筋を伸ばして言った。
「あの海賊めは匂いを嗅ぎわける能力を持っているかもしれませぬ」
「・・・匂いとな」
 しばらく考え込んでいた元就は、近習に何事かを囁く。
そばに仕えていた近習はそそくさと部屋を出て行った。
 と、しばらくして捨て駒の鑑として名高い清水宗治がいそいそと小箱を抱えてやってきた。中から取り出したのは香木である。
「元就様。こちらでよろしいでしょうか」
「うむ」
 うなずいて、香木を受け取ると元就はそれをくんくんと嗅いで、隆景に手渡した。
「独特の香りですね」
「ふむ、おそらく麝香であろう」
「それは何です?」
 きょとんとする隆景を無視して、元就は同じものを清水から受け取り袖に入れてしまった。
「隆景よ。次から我の影武者としてあの男と対するときは必ずそれを肌身離さず持ち歩くのだ。良いな」
「かしこまりました」
 これできっとあの海賊にばれずに済みますね、と笑みを浮かべる隆景だったが、その様子をそっと部屋の外で見守っていた家臣たちは微妙な表情を浮かべ、互いの顔を見合わせるのだった。
 この程度であの海賊が騙せるだろうか。元就さまは一体何をお考えなのか。
 伏せがちの目をそっと上げて主君の様子をうかがうと、元就はひっそりと微かな笑みを赤い唇に乗せており、家臣たちはぞくりと背中を震わせた。