瀬戸内共闘<海戦> 弐


  
 
 
 
 
 勝手が違う水上での戦に、家康は顔をしかめた。朝日が昇ると同時に停泊していた海域を離れ厳島へ向かうとした作戦はとっくに暗礁に乗り上げている。夜間の奇襲に全く備えていないわけではなかったが、雨と風に紛れた関船からの突然の襲撃に徳川軍は大いに乱れ混乱していた。
 忠勝がいれば空中からの攻撃もできたかもしれない。だが、この西国での海戦を耳聡く聞きつけた独眼竜が不穏な動きをしていると聞けば家康と忠勝ふたりともが中央を離れるわけにはいかなかった。三成ひとりに任せるにしてもいまだ悔恨を残している彼と徳川の家臣が上手く連携を図れるとも思えず、ここにきて長曾我部・毛利連合軍による『瀬戸内の覇権争いは海の上で』という条件を飲んだことが仇となったのである。
「何をぼんやりしている。反転するか、このまま長曾我部の船とやり合うか選べ、家康」
 いつの間にか、隣に三成が立っていた。雨にうたれびっしょり濡れた姿は幽鬼のようで、思わず目を見開いて苦笑する。
「やられたな。毛利と言えば奇襲、すっかり忘れていた」
「だから甘いと言うのだ。それから斥候からの報告だ。どうやら厳島の本陣に毛利元就はいない。それと雑賀衆がいる」
「孫市が?雇われたのか」
「積極的にうって出るつもりはないようだ。この際厳島は放置でいいのではないか」
「そうだな」
 そもそも雑賀衆とて海戦経験はある。だが今回は陸から離れないつもりらしい。
 とすると、毛利は奇襲をしかけてきた後方の船団のどれかに乗っていることになる。
「元親と毛利の挟み撃ちか。あいつら、あんなにいがみ合っていたのにな」
 感慨深げに目を閉じ、そして力強く両頬を叩いた。
「おそらく元親はワシとの一騎打ちを望んでいるはずだ。兵士たちは海の上での戦いに慣れていない。無理をせず、沈められそうになったら逃げろと伝えてくれ。元親もきっと彼らを助けてくれるだろう」
「ふん、相変わらず気に食わんやつだ」
 そう言って、だが三成は反論しなかった。さすがの彼も足元が不安定な船の上での戦いに嫌気がさしてきたようだ。
 砦から現れた井楼船は徳川方の船が右往左往しているうちに素早く楼を組み上げ、高い位置から火のついた矢を放ってくる。頭上からの攻撃に逃げ場はなく、兵士らは海に飛び込むしかなかった。
 やがて轟音が近くなり、巨大な船が向かってきた。砲台はまっすぐにこちらを狙い、大筒の上には碇槍を肩にかけた鬼が仁王立ちして笑みを浮かべている。眩しいほどの松明の火が暗い海を覆って、幻想的とさえ言える風景に一瞬目を奪われた。
「よう家康!海での戦はどうだ?そろそろ尻尾巻いて逃げたくなったんじゃねえのか?」
「元親」
 困ったように笑って、だが家康は両の拳をかつんと鳴らした。
「ああ、本当に大変だよ。さすがに海での戦でおまえたちには敵わない。だがワシらは別に船の速さで勝ち負けを決めるわけじゃないんだろう?」
「ははっ、別にそれでもいいけどよ、それじゃあ一生おまえは俺に勝てねえぜ」
 大筒は確実に家康たちを狙っている。だがそれが火を噴くことはないだろうと誰もが予測できた。元親も、そんなことは願っていないのだ。
 西海の鬼は脚の具合を見る様に一度大きく屈伸して、勢いをつけると浮かんでいた小早に乗り込み、瞬く間に家康たちの乗る安宅船へと乗り移った。三成が構えると同時に、後ろから大きな衝撃が伝わり巨大船がぐらりと揺れる。足並み揃った音が近づいてきて、やがて護衛の兵に囲まれた元就が輪刀を手に優雅とさえ思える足取りでやってきた。
「まだ終わっておらなんだか。そろそろどちらか、うまくすれば共倒れでもしているかと期待しておったのが」
「嘘つけ、どうせ一番いいところでやってきておいしいとこ総取りしようと思って駆けつけたんだろうがよ。そっちの凶王が手ぐすね引いてあんたを待ってたぜ」
「貴様も徳川もろとも瀬戸海の藻屑と消えてもかまわぬぞ。四国は我が中国へ編入して面倒を見てやろう」
「余計な世話だ!」
 言い争いをしながらも、ふたりはそれぞれ家康と三成から目を離さない。やがて双方の兵たちは彼ら四人を取り囲むように引いて行った。巻き込まれては敵わない、と同時に邪魔をしてはならないと思ったのだろう。だが元就が連れてきた兵たちはそれぞれ的確に場所とりを行い無心に弓を引いて構えている。
 動く者あれば射る。そう脅すように。
 轟音が再び響いた。見れば元親が乗っていた安宅船が徳川方の船を蹴散らすように砲撃をしつつ、乗り込んできた敵兵を次々と海へ払い落している。運よく乗り移れた徳川の兵士らと斬り合いが始まったようだ。ひと際大きな得物を振り回し、長曾我部の兵士たちを力強く叱咤しているのは村上武吉である。
「撃て撃て!撃ちまくれ!!」
「おいおいおい!そりゃあ一発放つだけで相当金かかってるんだぞ!無駄撃ちすんなよ!!」
 元親が叫ぶが、彼について移ってきた野郎共は苦笑するのみだ。
「アニキだってさっき無駄に一発海に撃っちまったじゃねえですか」
「うっせえ!あれは景気づけだっつってんだろ!」
「それを無駄撃ちと言うのだ」
「うるせえっ!」
 怒鳴り返すと同時に、元親は碇槍に足をかけると穹九で船の上を滑りだした。勢いあまって槍の前後が弾かれるのを抑えつけ、笑いながら家康の方へと向かっていく。
「家康!」
「ほぅ、凶王が人の心配をするようになったか」
「毛利・・・」
 思わず駆け出そうとした三成の前に立ちはだかったのは元就である。
「誰があんな奴を心配などするものか。私は私の仕事をするだけだ」
 言い放ち、鞘から刀を抜く。圧倒的なスピードで敵を次々と斬っていく彼の戦いは元就も散々見てきた。
 ふいに足元が大きく揺れた。
 オオオオオ、と鬨の声が上がり、雨と風に激しく揺れる船が一斉に砦から現れて徳川方の安宅船を取り囲む。
「弓兵!撃て!」
 凛とした声が響き渡り、組みあげられた楼から火矢が降り注ぐ。
「あれは・・・」
 きっちり計算されたように、長曾我部・毛利連合軍の兵士らの頭上を越えて徳川兵を襲う矢に驚いて元親が振り返る。
 小柄な男がひとり、老齢な武将に守られるようにして立っていた。
「ん?毛利?あれ?」
 だが見やる方向では三成と対峙する元就がいる。
 ひどくよく似たその姿は、眩しいほどの明かりに照らされてもなお同じ顔に見えた。
「影武者か?」
 とん、と背に重みを感じた。振り返らずともそれが元就であることが分かる。戦装束ごしに伝わる熱が冷たい雨にさらされ上昇していく。
「小早川水軍の将だ。あやつめ、後退しろと・・・」
 舌打ちするのが聞こえる。元就の向かいには三成が、間合いを測るように腰を落とし睨みつけていた。元親は少し離れたところで船の縁を掴んで体勢を立て直している家康を見る。
「状況は?俺ァさっぱりだ。野郎共には好きなだけ暴れろと言ってあるがな。あんたんとこの村上武吉があれこれ口出ししているようだが、あいつの部下はどうしてるんだ」
「問題ない。村上がそちらに移ったのは長曾我部軍の動向を見るためだ。打ち合わせなぞしておらぬからな。好き勝手に動かれてこちらの策を乱されては困る」
「好き勝手やってるのはそっちじゃねえか」
 事前に何の報告もなしに奇襲をかけたのはどっちだ。
「徳川の安宅船の背後には砦から百四十の関船と小早を出しておる」
「野郎共と暴れてやがるのは村上水軍だな?俺らと気性が似てやがる」
「元は海賊だからな」
 ふん、と笑って、ちゃり、と輪刀が鳴らした。
「三成とまともにやり合うのか」
「貴様は馬鹿か?」
 それだけ言うと、離れた方が良いぞ、とやけに優しい忠告を残し元親の背からぬくもりが消えた。
 なんだそりゃ、と考え込む暇もなく、ざわっと肌を焼く予感に慌てて飛び退く。
 炮烙と呼ばれる小型の陶製手榴弾が次々と降ってきて爆発が起こり、炎が船を焼いて行った。
「あっちぃ!てめぇ・・・ッ!!」
 誰だそんなことしやがるのは、と振り仰ぐそこには、長曾我部軍と一緒にいたはずの村上武吉が、小早川水軍の将の乗る関船に並ぶようにして浮いている盲船の先端で腕を組んでにやにや笑っていた。
 盲船というのは舷側に楯を並べて外から内部が見えないようにしている船で、敵船に接近しては手投げ爆弾を放りこみ、ひるませた上小船で接近して乗り込む。村上水軍のいつもの手だ。
 すでに元就も元親も徳川の安宅船に乗り込んでいたためわざわざそんなことをする必要はないはずなのだが、落ちついて周囲を見渡せばすでにこの船から元就と三成の姿が消えている。家康がまだ動けないのを確認して、松明の灯りを頼りに探すと、ふたりは徳川と長曾我部、両陣の大将船からやや離れた荷船に降り立っていた。
「おいどうする家康。この船沈むぜ?」
「どうすると言われても。しかし派手にやらかしてくれるな。まだ味方が乗っているのに」
 すでに火の手は雨でも消せないほどに広がっている。巨大な船だがそういくらもしないうちに沈むだろう。
「おいてめえ!まだアニキが乗ってるのによくも・・・」
「やっぱり毛利の人間は信用できねえ!まさかどさくさにまぎれてアニキを討つつもりじゃねえだろうな!」
 血気盛んな長曾我部の兵たちが武吉を取り囲んで罵り始めた。
 武吉はそんな野郎共を見返し、平然と大刀を肩に乗せる。
「なんだよ西海の鬼ってのはそんな簡単に倒せる相手なのか?じゃあ毛利の殿様が出る必要もないじゃねえか。あと勘違いするんじゃねえ俺は毛利に味方はしているが毛利の人間じゃねえ。いつでも勝てる方につく。それが海に生きる水軍の処世術ってやつよ」
 彼の言う通り、村上水軍は元から毛利についていたわけではない。村上三島のうち因島村上だけは早くから小早川軍についていたが、総家の武吉はぎりぎりまで趨勢を見守る慎重さを持ち合わせていた。この戦国の世、陸でも海でも、武将は常に有利な方につくものである。
「へっ、上等じゃねえか。おい家康。船が沈む前に決着つけようぜ。勝った方がさっさと離脱だ。そういうことだろ?」
 笑い返すと武吉が大きくうなずいた。
 長曾我部・毛利連合軍も徳川方も、どちらもすでに水夫は戦線を離脱している。残るは戦闘員ばかりで、何ら遠慮する必要もなかった。




 一方元就と三成は弾薬などの物資を積んだ荷船の上で対峙していた。
 周囲に人の気配はない。荷船を含む遊撃戦部隊を指揮していた児玉就方が最低限の水夫を残しただけで兵士に荷船からの離脱を指示したのである。彼らは関船や小早に乗り移り、ふたりの乗る船を三方から囲んだ。徳川方の兵たちは家康の乗る安宅船を見守るのに必死で、いつの間にか移動しているこちらへは注意を払っていない。状況は圧倒的に元就の有利だったが、大将戦での一騎打ちにおいて周囲の兵の存在はあってもなくても変わらないのである。ここで仮に三成が元就を打ち果たしても、おそらく毛利軍は三成を討とうとはしないだろう。
「足もとがぐらついておるぞ石田よ。船酔いはせぬのか?」
「黙れ。そのような軟弱者と一緒にするなッ」
 静かに荷船が動き出す。周りを囲む船がそれを追う。向かう先は炎がたちのぼる安宅船だ。ときおりまばゆい光に包まれ、それをさらに炎が覆う。家康と元親の一騎打ちの場に戻ろうと言うのか。だがすぐに三成は理解した。この船はあの安宅船がいよいよ沈んでしまった時の足場とするのだろう。
「共倒れを期待しているのではなかったのか?」
 ぶらりと体の力を抜いて立つ三成から距離をとった元就は、何の構えも見せず自然な動作で輪刀を掲げ『壁』を作りだした。三成が攻撃をしかけてからでは遅い。
「なに、邪魔者はまとめて排除するのが手間もかからず良いと判断したまで」
「元親の援護に行くのだと何故言わない?」
「援護?」
 輝く円の壁の後ろで元就はふわりと笑った。
 三成も無暗に飛び込むような真似はしない。これがすこし前の彼であったら、元就の技ごと斬ろうとするだろう。そうでなくても、『壁』を避けて突っ込んだところにさらに仕掛けられた罠に足を取られるかもしれない。
 驚異的なスピードによる近接戦を得意とする三成を相手にするとき元就は分が悪い。それで一度敗北している。だからこそ二度同じ手は使えまい。必ず罠を仕掛けてくる。
 慎重に距離をとり足元や周囲を確認する三成に、元就は冷やかな笑みを浮かべたままつんと顎をそらして、近くなってきた燃え盛る安宅船を見やった。
「貴様は徳川が気になるようだな」
「・・・そういうわけではない。だがあの船はもう持たないだろう。周囲にある貴様の軍のやつらが元親を助ける手はずになっているのか」
「知らぬ」
 長曾我部の軍は助けようとするだろうが、果たして村上や小早川がそうするかどうか。
「さて凶王よ。足元の小石はとりのぞいたか?転ばぬようしかと確認するがよい。貴様のその柔足では船の板場は辛かろう」
「黙れ!」
 走りこむ三成の残像がぶれて消えた。すでに『壁』の後ろへと下がっていた元就は船の縁に飛び乗りくるりと体を反転させる。そのまま暗い海に飛び込むかと思われたが、彼は隣りに浮かんでいた関船へと飛び移り再び誘い手『幻』で凶王を惑わした。
 そうと分かっていても引き寄せられるのが『幻』である。三成が誘われて斬りつけるぎりぎりのタイミングでそれを爆破させ、大きく船が揺れるのに合わせて再び別の船へと飛び乗る。
「逃げるのか!!」
「はて、童子の頃やらなんだか。鬼ごっこよ」
 鬼さんこちら。
 手の鳴る方へ。
 からかうようにくすくす笑いながら、元就はひらりひらりと三成の攻撃をかわしていく。三成は気づかなかったが、うまく元就が飛び移れるように毛利方の船が次々と連なっていくのだった。それはやがて橋のように並び、ごうごうと燃える安宅船へと続いて行く。
 ガキィン、と激しく刃が固いものに当たる音が響いた。いつの間にか雨は小降りになり、炎と煙で真っ黒の汚れた兵士らの顔を洗っていく。
「おらおらどうした家康ッ!天下を取るんだろう?もっと俺を滾らせてみろよ!海に落とす勢いで向かってきやがれってんだ!」
 炎の噴き出す碇槍を振り回しながら、大きく揺れる足元など気にも留めず元親が家康を船尾へと追い込んでいく。
 船首部分はすでに燃え落ち、真っ黒になった木材が次々と海へと払い落されていった。時折嫌な音をたてて安宅船がバランスを崩す。
「くっ・・・やるな元親!だがワシとてそう簡単にやられはしない!まだこのくらい、困ったうちにも入らないさ」
 家康の手甲が光る。
 知った光だ、と元親は思った。
 似た眩さを嫌というほど知っている。かの男が敬愛する日輪の光。そこには正も邪もなく、善も悪もない。
「架け橋となれ、ワシの拳よ!人の全てを結ぶまで・・・!」
 目が眩む。
「ぐっ・・・!」
 思わず腕で目を庇い、一歩引いた。繰り出される圧倒的な力に吹き飛ばされ、背中から船の縁に叩きつけられる。
「アニキ!!」
 慌てた野郎共の叫び声が聞こえる。
 家康は追撃してこない。こちらが立ち上がるのを待っている。
「ちくしょう、なめやがって・・・」
 衝撃で脳が揺れる。霞む視界に、一瞬だけふわり静謐な風が吹いた気がした。
「無様だな」
 見上げた縁の上に具足に包まれたすらりと伸びる足。
 どんなときも冷静で、そのくせひとりぼっちを指摘すると子供のように激昂する声音。
 人を見下すことに慣れた冷たい視線。風に煽られ身じろぎひとつしない体、そしてまるで人形のように整った顔。
 音もなく、何の前触れもなく、鳥のように彼はそこにいた。