海賊衆、と呼ばれていた。元は安芸武田氏が抱えていた直轄の水軍である。安芸武田を滅ぼし、海賊衆を取り込み、家臣の児玉就方らを警固衆に任じて毛利水軍とした。さらに小早川氏や大内氏の水軍をとり込んで編成、さらに村上水軍をとりこむと瀬戸海の覇権を確立。
「要は、だ。偉そうな顔して結局人様のもん横取りしただけじゃねえか」
強い酒で数えきれないほど杯を空にしながら元親が呻くように呟く。
「今は尼子と揉めてるみたいだぜアニキ。毛利水軍が出雲に向かってるって報告があった。隠岐水軍とど派手にやらかす気だ。しかも数が多い」
「海上を封鎖するつもりか」
補給を断ち防衛網を遮断するんだろう、と弟が元親と似た半裸姿でぐいと杯を呷る。
「瀬戸海で好き勝手しやがって、いよいよ俺らにも喧嘩売ってくるつもりじゃねえの」
「いや、その前に九州を攻めると思う。旧大内の所領をごっそり持っていく気がするぜ」
博多の権益もある。
「そううまく行くかね。大友が勢力を拡大している」
尼子に大友。どちらも手ごわい。今四国にしかけてこないのはおそらく、こちらをさほど問題視していないからだろう。言わば舐められている。中国を支配する大名となった毛利だが、勢力を拡大すればするほど敵対する側も必死になる。今はまだ対岸の火事だとのんびり見ていられるが、やがて出雲も北九州も飲み込んで、いつしか日の本の西半分を勢力下に置きかねない。
毛利は天下になど興味はない、と豪語している。彼が戦場に立つは全て中国と毛利家のためだ。だがこの戦乱の世にあって、おとなしくしているから放っておいてください、は通用しない。天下など必要なくとも彼は常に国を守るため戦わなければならない。それは元親も同じことだったが、四方を海に囲まれた四国はまだ余裕があった。いずれ戦火に巻き込まれるのは自明の理ではあるが、中国に比べればまだ、もう少し。
「出雲か」
「アニキ?」
ふたりの弟が、ふと顔を上げた。
一方はどこか嫌そうに、もう一方は真顔だが目の奥が僅かに笑っている。
「尼子ってやつがどんな大将か知らねえが、ちょいと見極める必要があるかもな」
「と言うと。こっちの味方に引き入れて毛利に対抗するって?無理無理」
ひらひらと手を振って、ふたつ年下の弟がひょいと肩をすくめた。
「調べたところによるとあの男意外と切れ者だぞ。ああ見えて」
「見たことあるのか」
「優男だよ。一見さ。あとわけのわからねえくすぐったい科白吐きやがる」
女の間者を放って調べさせたのだと言う。
家臣や領民の評判はまちまちで、何だか世迷い言をぺらぺらと口にする、口が悪い、毛利を敵視している、と言った話から、だが腕が立つ、そして忠実な家臣に恵まれている、あの毛利の居城を攻めたことがある、という話まで。
「ああ吉田郡山の籠城戦だろ。負けたんだろ尼子。ダメじゃねえか」
「大敗だよ大敗。身内も死んでる。でもその後月山富田で毛利を窮地に追いやってるんだし、実力はそこそこなんじゃねえの?」
銀山の奪回はできてないけど。
「ふうん」
尼子晴久ねえ。
ほとんど、というより全く興味のない『遠いお国の話』だった元親だったが、あの毛利と対等にやりあうだけの力量があるとなれば無視するわけにもいかない。
「一緒に毛利を負かそうぜ、なんていきなり持ちかけたりはしねえよ。ただちょっと奴さんの働きっぷりを見せてもらおうじゃねえか」
「アニキは一対一で毛利元就と戦いたいんじゃなかったのか?」
口を開けば気に入らねえ、一騎打ちでぼこぼこにしてやる、とうるさい元親が、他の勢力と手を結ぼうと思うだろうか。
元親は大きな獣を思わせる獰猛な笑みを浮かべると、空になった徳利を放り投げて床に転がした。
「毛利元就は俺が倒す。だが毛利軍は長曾我部の軍が倒す。そうだろ?」
だからおまえらも働けよ。
「邪魔な魚の群れに網を投げろって言ってるようなもんだぜ」
それで大きな獲物はひとりじめか。
ぼやく弟たちに新しい酒の追加を命令して元親は開け放たれた戸の外へと視線を移した。
「出雲か」
「船を出すかい?準備しろってぇならいいけどよ、また国を空けるとじいさんたちがうっせぇぞ」
特に吉田のじいさんが、と、上の弟である親貞もっともらしく渋い顔をする。
「優秀な家老のみなさんがいるから大丈夫だろ。別にぞろぞろ野郎共連れて行くわけじゃねえんだろ?戦に出るならまだしも見物なら」
「仮にも国主が単独でふらふら出雲見物かよ」
呑気だね、と笑いながら、下の弟の親泰が新たに持って来させた酒を元親の杯に注ぐ。
「豪気って言え」
「いやただの烏だね」
「くっそ、サヤカの真似すんなよ」
サヤカ、という名に、ふたりの弟は顔を見合せて意地悪そうに笑った。
「あーあ、雑賀の姐さんが嫁に来てくれたらなぁ」
「いい女なのにな」
「冗談じゃねえよ」
好き勝手言いやがる、とぶつくさ言いつつ、さて、出雲へ行くための言い訳を考えねば、と元親は思った。
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あれは勝てる戦いだったのだ。
銀山を攻略して播磨へ勢力をのばし和睦していた大内氏と決裂したその後の話である。
その頃毛利はまだ大内氏に属する一領主のひとつにしかすぎなかった。晴久からしてみれば、祖父の権威の何百分の一にしか及ばない、とるに足りぬ相手だったのである。それがあの様だ。かつて尼子の傘下にあって、義兄弟の契りを結んでいたにも関わらず、毛利は尼子から離反したのだ。そうして着実に勢力を蓄え、やがて安芸国の勢力を拡大していくつもりなのは火を見るより明らかだった。
あれを討たねばなるまい。
祖父は反対したが、晴久は聞かなかった。裏切られた、という執着の念が僅かにあったのは、元就と少なからず交流していたからだ。仲良くしてたわけではない。晴久の言う「交流」とは一族が面倒をみてやっていた、くらいの認識である。
思い出すのは表情を表に出さない子供らしかぬ振舞いと、誰が見ても心のこもっていないことが分かるだろう貼りついた笑みだ。それでも貴人のような作法とその美しい容姿に騙されるかのように、誰もが彼に惹かれていった。必要とあれば権力を持った男に抱かれることもあっただろう。否、それだけではない。国主の奥方も立派な情報源である。耳元で甘言を囁いてほんの少し目を伏せるだけで、誰しもがその気になる。そうして知らず知らずのうちに、様々なものを引き出されていくのだ。
ずるい、と思った。相手のほうが年上ではあったが、晴久にとって元就はあくまで格下の、力なき可哀想な乞食若殿でしかなかった。だから、始めのうちはそれもまた仕方のないことなのだろう、など憐みすら抱いていたと言うのに。
安芸の毛利元就には決して気を許すな。
そう告げたのは祖父だった。
元就が危険な相手であると最初に気づいたのは紛れもなく、聡明な祖父だったのである。田舎の弱小領主の次男であり、かつて乞食若殿などと貶されていた男が、いつの間にか毛利家を継いで少しずつ、目立たぬよう、それはそれは慎重に趨勢を見極めてきた。大内と尼子、ふたつの権力の挟間で悩まされているように見えながら、彼はじっと待っていたのだろう。どちらかともが傷つき、疲れ果て、倒れるのを。そうしてどちらにもいい顔をしながら他の領主たちを飲みこみ、滅ぼし、力を蓄えていった。
晴久の祖父はかつて晴久に言ったことがある。
毛利を継いだあの男は化け物かもしれぬ、と。
その美貌と、智略と、冴え冴えとした目は人と時代の行く末をまるで知っているかのように操れるのではないかと。
くだらない、と晴久は鼻で笑ったのだった。
あれは単なる頭でっかちの口だけ男だ。いくら頭が良くてもあの華奢な男が有力な国主や家臣たちをまとめられるとは思えない、ましてや一度家臣に裏切られたような男だ。祖父さんは毛利元就を買い被りすぎなんだよ。
そう、吠えていたのに。
「あーくっそ、嫌なこと思いだしちまったじゃねーか」
「どうしたんです殿。そろそろ出陣の時刻ですが」
「分かってるよ」
さぁ、と促すのは家臣の山中幸盛である。
「毛利水軍は日本海へ展開を始めており本隊は白鹿城を目指してへ侵攻しております。元就はおそらく本隊を率いているものかと思われます」
「晴久様」
別の声が割って入った。
普段は安芸を始め九州などへも放っている間者のひとりだ。僧侶に扮装し様々な情報を収集する諜報活動を行っている。彼の名は知らない。祖父の代からの草である。
「土佐の長曾我部に不穏な動きが」
「はぁ?」
誰だっけそいつ、とこめかみを指でかいて晴久は僅かに首を傾げて見せた。
「四国の長曾我部です。毛利と敵対している」
「ふうん。で、何しようとしてるんだ。まさか俺と手を組みたいなんて思ってるわけじゃねえんだろ?何の関係もないぜそのちょう、ちょうそ・・なんとかってやつ。四国ったって海の向こうの離れ小島だろ」
詳しくは知らないが、と晴久は興味の薄い表情だ。
瀬戸海を越えた向こう側、という位置もあるだろうが、彼らにとっては有象無象のひしめき合う山陰こそが主戦場であり己の居場所だった。四国に注目する必要性を感じない。噂も聞かない。晴久の世界はまだ狭く、広げる先は海の向こうなどではなく山を越えた安芸に向けられている。
「ちょっかい出してくるなら適当に追い返せ。毛利とやりあおうってんなら特に邪魔はしねえよ。逆に利用させてもらえばいい」
「あっちの主力部隊は水軍です。毛利の水軍にぶつけるでしょうか」
「本隊はそっちじゃねえだろ」
目当ては毛利元就ただひとりだ。
「晴久様は毛利元就をどうされるのです?」
ふいに、いつもは騒がしい幸盛が声を落としてそんなことを尋ねた。
珍しいこともあるのものだ、と晴久は振り返る。部屋の隅っこで控えていた草はすでに姿を消している。愛想のないやつだ。
幸盛は大きな体を縮めるようにして背中を丸めながら、あぐらをかいて上目づかいに主を見た。頭に血の上りやすい猛将だが『山陰の麒麟児』の異名を取る彼のたてる武功は目覚ましい。幼少の頃から尼子家の家臣としてつかえてきた。昔から知った馴染みの男が、遠慮がちにものを尋ねてくるのを珍しげに眺めて晴久は片膝を立てる。
「どうって、何が」
「仮に、です。仮に元就と合いまみえることにならば、どうなさるおつもりなのかと」
それは遠まわしな牽制にも聞こえた。
彼は晴久が元就に執着しているのを知っている。ただ、その方向性を見誤っている、と晴久は思った。
大内や、他のだらしのない男どもとは違う。たとえ女のような美貌と色香をたたえていようと相手は策士だ。すべては計算の上になりたつ行動である。そんなものに自分が引っかかるわけがない。祖父のように、元就のことを怖ろしい相手だとまでは思わないがわざわざ元就の策略に乗ってやるほど浅はかではないのである。
晴久は苛立ちを覚えて舌打ちすると、ぞんざいに手を振った。
下がれ、との無言の命に幸盛は深く頭を下げるとがしゃがしゃと鎧を鳴らしながら去って行った。