心を殺して生きてきた。
心を殺す、ということは、何ものにも揺れ動かぬ強い信念である、と元就は考えている。目の前でどれだけの血が流れようとも、それは策の上で必要なものだった。最小限の犠牲で領地を守ることができるのならばと、捨て駒と呼ばれる毛利の兵士たちも自ら進んで前線へとおもむく。だからこそ、彼らの屍に涙するようなことはないし、またあってはならぬ、と思った。
それなのに、ただひとりの男の存在が凍てついた心を揺さぶる。
(これは何だ)
膝の上で身じろぎひとつせずぐったりとしている男を見下ろし、血に濡れた手のひらを何度も布にこすりつける。
「鬼よ」
目の前で跳弾し地面がえぐれた。小石が跳ね飛ばされ、元就の顔に傷をつける。誰かの怒鳴り声が響いた気がしたが、耳に入らない。
元就はそっとうずくまるようにして、目を伏せている元親の鼻先に唇を近付けた。
「西海の鬼よ。我が愛したただひとりの男よ。早う目を覚ますがよい」
潮のざわめきが聞こえぬか。
日輪の眩しさが見えぬか。
こんなにも近くにいるというのに、我を無視するとは良い度胸ではないか。
「愚かなり」
ふ、と一度だけ笑みを濃くして、そっと元親を地面におろし立ちあがる。
輪刀が鈍いうなり声をあげた。流れ込むのは覚悟を決めた武将の魂と、灰色の空を割る一筋の光だ。
地面を何度か踏みならして輪刀を掲げる。足の痛みは感じなかった。ただ守らねばと思う。
「良いか、貴様が甲斐性ないのが悪いのだ。あとで殺してやるゆえ、そこで転がっているがよい、木偶の坊めが」
言い捨てて、政宗らが刀を振るう戦場へと走った。近づくにつれて瘴気がひどくなりつんとこめかみが痛む。
「え、毛利さん!?元親は?」
「捨ててきた」
「えええええ?」
そっけなく言い放ち、唖然とする慶次を追い越して、政宗と幸村が同時に襲いかかる魔王のすぐ横で一度足を止めると、くるりと舞を踊るように体を一回転させ、不思議な色に輝くもうひとりの毛利元就がそこに立ちつくす。
誘い手・幻。
毛利元就の分身にして、最強の捨て駒。
とっさに魔王の狙いが政宗と幸村から外れ、すぐ近くで誘う元就の幻に向かっていった。
元就が声を上げる直前で政宗と幸村が飛びのき距離をとる。
「散!」
途端に幻が爆発して、魔王がマントをひるがえして吹き飛ばされた。受け身を取って着地するのを待たずに、再び政宗らが襲いかかる。慶次があまり動こうとしないのは、背後に倒れている元親を心配しているからだろう。
「前田の」
「え」
再び輪刀を構え戦闘を見守っている元就がふいに口を開く。
「貴様はあの転がっているモノを見てやるがいい」
「え、でも」
「気になるのであろう。一応止血はしておいたが適当なのでな。死なせたくないのであれば手当でもするが良い」
「・・・ああ、うん分かったよ」
何か言いたげな顔をした慶次だったが、次の瞬間には笑って、元親の方へと駆け寄っていく。
「ふん」
馬鹿のせいで人手が足りぬようになった、とぶつくさ言いながら、元就は走って行ってしまった。
元親の、無造作に巻かれた包帯を見て慶次は苦笑する。深い緑をした布がぐっしょりと血に濡れていて、その上から新たに布を足した。
「素直じゃないよね。心配だからそばについてて、て言えばいいのに」
その役割を慶次に託し、己自身は魔王に立ち向かうその姿勢が、誇り高い武人らしい、と思った。負傷して力を失った愛する男のそばにいるよりも傷を付けた相手に復讐しに行く。決してか弱い女にはできぬ所業だし、また護られるばかりの男ではないのだとつくづく思わせる。
「怖い怖い」
目を覚ましたら今度こそぶっ殺されちゃうかもよ、と血の気の失せた白い腕や腹をさすりながら、激しい戦が続く後ろを振り返る。
「寝てる場合じゃないよ、元親」
暗い空の下で輝く日輪の申し子があんなに眩しいよ、と囁いた。
輪刀そのものの攻撃力はそれほど高くない。だからこそ罠を設置し、また幻で誘導し、戦う。単体で戦を行うときの手法は人それぞれであり、たとえ感情が先走ろうとしても分相応というものがあるのだ。それをわきまえず、身に余る動きをしたときがこの世との別れである。それを見極めることができるか否かが勝敗を決するとも言えるだろう。どれだけ巨大な体格を持ち、得物を振るおうとも、三日三晩戦うことはできぬし同じ強さを持つ数倍量の敵に挑んで勝利することもまた不可能なのだ。
元就は隙をつくことを真っ先に考える。魔王は両の手に武器を持ち、強靭なマントを翻して挑んでくるが、決して隙がないわけではない。例えばショットガンの弾が切れた瞬間。例えば攻撃を受けて振り払う瞬間。ふたりが左右から同時に攻撃をすれば、当然頭上と足元への注意はおろそかになる。一人に対し数人がかりで、などとは思わない。相手はどれだけの兵が束になってかかってもおそらく倒せないだろう相手だからだ。
「日輪よ!」
雲を裂き、その姿を見せよ。呪われし地を光で覆い給えと。雷とは違う白い光に魔王の動きが一瞬止まった。
鋭い音をたて、雷光がほとばしる。
「OK,
Are you
Ready!」
ばりばりばり、と青白い光が政宗を包み込んで、一気に力を解放した。目が眩むほどの光をものともせず、六爪が頭上から魔王を襲った。燃える闘志が膨れ上がり、魔王が怯んだように見えた。すかさず政宗はそれを逃さず斬りかかる。
「竜の爪痕、その身にくれてやるよ!」
魔王が吼え真っ赤に血走らせた目がぎょろりと政宗を睨みつけた。
「うおおおおお!!巡れ火之魂、螺旋の如く!」
炎に彩られた二本の槍が魔王の胴を貫いたように見えた。が、とっさに信長は身を翻しぎりぎりのところでかわした。鎧が削れ火花が散る。
「くっ、あと少しだったのに・・・!」
「急くな虎若子。確実にあやつの体力は削がれておる」
警戒しながらもぐるりと見渡せば、死者の群れはことごとく焼き払われ、もはや魔王の血肉の代わりとなる生贄の姿はない。すべて土に還ったのだろう、忌わしい生と死だったが、ひどく哀れだ、と誰もが思った。弔いの祈りは胸の中にしまって、今はのんびりしている暇はない。
「小賢しい虫けらどもよ・・・」
熱に満ちた空気を震わせて信長が呻いた。まるで攻撃など効いていないかのように笑う。赤く濁った眼がひたりと元就を見た。
「邪魔な輩よ。己が矮小さに気づかぬか・・・」
はっとして左足を引く。日輪の威光によりたとえ一時的にでも動きを止める元就の力をまず最初に排除するべきと考えたのだとすれば、やはり魔王はただの死人とは言えぬ。思考することができる蘇りし者。それは贄となった死者たちとは一線を画す存在だった。魔王が大きくマントを払い、強い風が吹いて地面の小石が舞い散った。
「崩天!」
ぞくりと肌を刺すような悪しき力が放出される。
「やばい、逃げろ!」
叫んだのは慶次だったのか。
「貴様が生きた証を消し去ってやろう」
赤々とした焦土の地面に大剣をつきたて、魔王はすべての力を解放した。ぐらりと揺れた、と思ったのは視界が真っ赤に染まったせいだ。政宗たちは飛び退いて距離をあけたが、どこまで逃げるべきか判断ができなかった。
「天下布滅の焦土たり!」
地獄とはこのような風景なのだろう。
元就は真正面から襲う血の色と圧倒的な力を前に、ただ茫然と立ち尽くすのみだった。死、というものを恐れたことはない。ただ、己の生きた証である中国と毛利家そのものの滅亡だけが怖ろしい。だから、後継問題がなく、こうして自国より遠い場所で国を憂う心配がないのであれば、おそらく死んでもかまわない。
迫りくる地獄の業火に足元を焼かれそうになりながら、元就はふと目を閉じた。そこに浮かぶのは何故か己が愛した国でも、赤い鳥居でもなかった。
眩いばかりの銀。幾度となく抱かれたその力強い腕の感触。暴力的とも言えるほどにぶつけられた劣情と子供のような笑顔。敬愛する日輪のような。
「元親」
数え切れないほどの人間を屠り血を浴びた者同士、次は地獄で殺しあおうぞ。
口元に笑みが浮かんだ瞬間、じゃらりと聞きなれた金属音がして胴体に何かが絡まった。はっとして目を開けるとめまぐるしく景色が飛んでいく。どこぞへ引っ張られている、と気付いた時にはすでに焦土から引き離され、汗と泥と血に汚れた腕に抱きしめられていた。
「てっめえ、ふざけんなよ・・・!」
耳の後ろから低く呻くような苛立ちの声がする。
振り返らなくても分かる。
「元親、なのか」
「おうよ」
しっかりと受け答えたその声を確認して、ようやく振り返り見上げる。そこにはぐっと眉間にしわを寄せ、陽気な男のイメージからはほど遠い顔をした元親が元就を睨みつけていた。
「勝手なことしてんじゃねえ。あんたが死んでいいのは俺のそばだけだ」
今おまえ死のうと思っただろう。
ああ、怒っているな、と思うと、何故だか元就は胸がすっとして肩を震わせ笑った。
「よォ西海の鬼。まだ生きてたのか。案外しぶといな」
「ご無事でしたか!!」
地面に剣をつきたてゆらりと立ちあがる魔王を目の端にとらえながら、政宗と幸村も駆け寄ってくる。後ろからは慶次が。困ったような、それでいていたずらっぽい笑みを浮かべて、元就を放そうとしない元親を見つめた。
「いちゃついてる場合?」
本当に、いちいち面倒くさいよね君たちって。
「さて、そんじゃまあ、last
partyと行くか」
そろそろ地獄に帰りなおっさん。
政宗が不敵に笑うと、仕方ないな、という風に元親もようやく笑みを浮かべた。
一度仕切り直しするかのように六爪を鞘に戻した政宗は、少しどいてくれと四人に告げると軽く腰を落とした。これが最後だ。おそらく、他の四人もそうだろう。体力は無尽蔵ではなく、だが決して負けぬ不屈の闘志は天を駆ける竜のように。
「行くぜ地獄の魔王!!竜に食われてもう二度と目を覚ますんじゃねえぞ!It's
one-eyed dragon
!!」
一刀抜いて一撃当て、飛び退る信長を追い一刀抜いてはまた一撃当て、青白く光る雷光がほとばしって業火を飲み込み、魔王は攻撃を弾き返す度に後退せざるを得なくなった。
「加勢致す!!うおおおおおお!熱血ううううぅうううう!!!」
虎の若子が吠えた。力を全身にみなぎらせ、大きくふたつの槍を構える。このときばかりは政宗も邪魔だとは言わなかった。この日の本で最も戦いたい、そして勝ちたい相手。宿命の敵であるふたりは何度も命のやりとりを行ってきた。それはつまり、互いの力に全幅の信頼を置いているという証に他ならない。今このときだけは、きっと誰よりも心強い戦友となれる。
「風林火陰、山雷水!!」
敬愛する師、武田信玄が常日頃から口にする孫子の教え。何事も直感で動くことの多い幸村にとって、詐術に始まり利で動く戦はまだ難しい。ただそれを唱えることでいつでも師が見ているようで、ゆえに無様な戦いだけはできぬ。
六本の刀で追い詰めた政宗の最後の一振りが振り下ろされる間もなく、ふたつの槍が広範囲に渡って炎を吹き魔王を絡め取り焼き尽くしていく。信長の放つ火が地獄の業火であるならば、幸村のそれはただ純粋なる闘志だった。そこには考え抜き、悩みぬいてひとまわり成長した男の姿がある。甲斐の虎の後をただついて行くだけだった自分が、誇り高い武人であることを思い出した将としての自覚だ。
「いいねえいいねえ、祭りだねえ!」
「おいおい、この状況でよくそんな軽口叩けるな」
元就を片腕に抱きこんだまま呆れた口調で突っ込んだ元親に、慶次は超刀をがしっと肩にかつぐと気軽な足取りで一歩進み出た。
「それが俺の役目だからね。でも見てるだけじゃつまらないし、俺も混ぜてもらおうっと!」
ここに孫市がいればもっと積極的にがんばるのに、などとほざきながら、慶次は駆けて行った。誰よりも自由であるために誰からもその苦しみを理解されなかった男だ。自由であるということは、その分だけ使える手札が少ないのだから。それでも寂しくないのは、常に肩の上で必死に励まし続ける小さな相棒がいるからかもしれない。
(悲しいことは忘れなくていいんだ。孫市がそれを教えてくれた)
「掴めや抱け、乱れ髪!!」
超刀を豪快に振り回し、炎の中でもがく魔王を終わりのない端へ端へと追い込んでいく。慶次の口元には笑みが浮かんでいた。まるで喧嘩祭りを楽しむかのような余裕は、自身を鼓舞するためのものだったかもしれない。
元就がとん、と肘で元親の腹のあたりを突いた。魔王の咆哮と、市の泣き声が響く。ばりばりと音をたてて雲が割れるようだった。
「どうした鬼。立っているのもやっとだと申すか」
使えぬ男よ、と皮肉交じりに呟けば、頭一つ分高いところでこっそり苦笑する息遣いを感じる。
「じゃあおまえが照らしてくれよ。あいつらのせいで魔王の周辺ばっかり眩しくて手元が危ねえや」
だからおまえが俺を照らしてくれ。
そう言い残し、鉛玉を食らったとは思えぬほどしっかりした足取りでぶらぶらと歩み去る。その、少し猫背気味な後姿をしばし見つめて、元就はそっと笑みを浮かべた。
誰よりも愛しい鬼よ。我が愛したただひとりの男よ。
国を焼き、人を斬りながら歩んできたこの身で照らせと言うのか。その価値があると本気で申すか。あの日輪のように、輝けると。
「ならば元親。我はおまえだけを照らす光となろう。国主の座を譲り、戦人を名乗らぬ身となっても、おまえだけは照らし続けよう。おまえがそれを望む限り、未来永劫、」
我はそなたとともにいたい。
その呟きが聞こえるはずのない距離まで歩いた元親がふいに立ち止まり振り返る。
「ああ、俺も愛してるぜ」
両腕を荒れた天へ掲げ吠える魔王に向き直り元親が碇槍を振り上げた。元就はずしりと重い輪刀を持ち上げ、目を閉じる。
「日輪よ」
あの者を照らせ。悪しき魔の手から清め、守護したまえ。
淡く輪刀が紫色に変化し、やがて真っ白な光をともなって元親と、そして魔王らの頭上に巨大な光の輪が出現した。もがく魔王は身を焼かれ、赤い目が耐えられぬというようにうつろにさまよう。
「海賊の流儀ってやつ、教えてやるぜ!!」
碇槍を振るい乱舞に身を躍らせる。何も言わずとも、元就はしっかりと己が役目を心得ていた。煌々と鬼を照らす光の輪が収縮し、やがて一本の鋭い矢となって大きく震える。
「撃てやああああああ!!」
元親の合図とともに、光の矢は一直線に魔王の脳天を貫いた。周囲は真っ白に覆われ、灰色と闇とをかき分けてどこまでものびていく。
獣のような叫びがぞっとするほど暗く響き、地の底へと落ちていく。
『死のうは一定』
さだめなり。
そんな呟きが聞こえた気がした。
やがて開ける砂埃と光の中、たたずむ男たちが振り返る。
汗と血に汚れ、それでも下を向くことをしない武将たちの自信ありげな表情に、元就はつい笑ってしまったのだった。
なにやらざわざわしてるな、と思えば、石田軍に与さず散り散りになった後人知れず戻ってきては騒ぎを起こそうとしていた豊臣の残党を捕縛したのだと言う。複雑そうな表情の三成だったが、むっつりとそう説明した。
「慈善活動ではないぞ徳川。我らは高い」
「ああ、分かっている」
困ったように頭をかく家康に、くすくすと笑いが起きた。かつての竹中半兵衛を真似ようとしたのか、潜伏侵略を行おうと画策していた者たちを監視し、牽制し、捕縛に力を貸したのは雑賀衆だった。その統率力と素早い行動に、徳川方が兵をあげる必要がなかったことは大きかった。天下分け目の戦がおさまったばかりでまた戦かと民衆に思われるのは得策ではないからである。目立たず、だが確実に事をなす。孫市を留守役に残して良かったと心底家康は胸をなでおろしたのだった。
兄とともに地獄へ行くと泣く市を半ば無理やり押し戻したのは元就だったという。それを聞いて目を丸くする家康たちに、慶次が酒を堪能しながら笑って手を振った。
「あの人が優しく声をかけるわけないじゃん。『そのまま地獄へ落ちても我は一向にかまわぬが、連れ帰れと徳川がうるさく言っていたので貴様は連れて戻る、嫌だと申しても聞かぬ!』てぷりぷり怒りながら腕引っ張ったんだよ。あの人も足を痛めてふらふらしてたのにさ」
素直じゃないよね、本当に。
言いながら、ここにはいない元就と元親の姿を思い浮かべるように、僅かに天井を見上げた。
「じゃっどん、皆無事で安心したばい」
自分もそちらへ行って暴れたかった、と豪快に笑いながら鬼島津が杯をぐいと煽る。右から左から酒を注がれそろそろ酔いがまわりだした幸村をからかいながら、政宗もまた酒を注ぎ足した。
「で、あっちは話はついたのか?」
何やらおかしな雰囲気を放っていたぞあのふたり、と尋ねれば政宗はさも意味ありげににやけながら開け放たれた廊下を振り返る。報告もそこそこに、怪我の手当をした後元親は元就を引っ張って行ってしまった。呼び止めるような野暮は誰もしない。
せいぜい酒の肴のネタにして、次に顔を合わせたときには散々からかってやろう。家康がそう宣言して杯を掲げると、一斉に笑い声があがって、仕方なく三成もいまだ慣れぬ大量の飯を四苦八苦しながら飲み込んだ。
「大丈夫か?」
そう言えば必ず機嫌は悪くなるだろうと知っての問いかけだった。新しく何重にも巻かれた包帯をさすりながら、湯を使いこざっぱりした小袖姿でくつろいだ様子の元就は、気遣う元親をちらりと睨んでそっぽ向く。つんと澄ました顔は普段通りで、けれど目が宙を泳いでいる。何を緊張しているのだろう、と思うとおかしくなって、元親は他に誰もいないのをいいことに、そっと肩を抱き寄せた。機嫌をとるように髪を撫でているとその感触がなつかしくて、慈しむように触れるのは本当に久しぶりなのだと改めて思う。戦乱の世、ほんのわずか、一瞬とも思えるささやかな日々だった。抱き合った翌日に船の上で命のやりとりをするほどに、刹那的で複雑だった。互いの立場が違っていればまた違う関係を築けたかもしれない。だが、出会うことすらなかったかもしれない。それにぎりぎりのところで駆け引きをすること自体は元親は嫌いではない。海の男はいつだって、何をも恐れずただ立ち向かい、欲しいものは奪い、自由気ままに生きていくのだ。
「なあ、あのときおまえさ」
「何だ」
ぐいと引き寄せられ耳元で囁く元親を煩わしそうに見上げ、振り払おうと身をよじりながらそっけなく返す。だが本気で嫌がってはいないのだと元親は分かっていた。そういう、振りなのだ。仕方なく、こうして触れるのを許してやっているのだと、そう自分を納得させることで矜持を保とうとする。精一杯の元就の譲歩だ。それがひどく不器用で愛しい。初めの頃はそんなことも分からずに、ただひたすら苛立ちと焦りに右往左往していた。
「俺が倒れたとき、何か言ってたろ。あれもう一回言ってくれねえか」
「・・・何のことだ。我は何も言うておらぬ」
「いや言った。ぼんやりとだがちゃんとこの耳に届いてたぜ」
「幻聴であろう」
言った、言わない、の応酬を何度か繰り返し、いい加減疲れてぐったりしたところを抱きしめられる。己が殺そうとした男だ。そしてまた、己を殺そうとした男でもある。元就は元親を恨んだことはない。ただ、そうすべきだと思ったから非情な手段を選んだまでだ。では元親はどうか。恨んでいるだろう。憎んでもいるだろう。それでも愛してくれるのだろうか。ここを出たら、またぎこちないふたりになるのだろうか。元就は顔を上げて、じっとこちらを見つめたまま何も言わない隻眼の男を見た。
「鬼よ」
「・・・ああ」
何を言えばいいのかも分からず、ただ呼ぶ。元親は先を促すことも急かすこともせず、続きを待った。吐息がかかるほどの距離。けれど口づけを交わすよりもまず、やらなければならないことがある。勢いのままその時の感情で動くだけではこの先何も残らない。未来がない。乱世をかろうじて生き抜いたふたりは、まだこれからも生きていかねばならぬ。そして生きている間はきっと、互いを思わない日はないだろう。
「鬼よ。我が愛したただひとりの男よ」
「おう」
そんなことは百も承知だと言わんばかりに。厚かましくも堂々とした表情で元親が応える。
「そなた・・・」
言いかけて、何かが喉につかえたように言葉が詰まった。
何を言えというのか。全てを欲してもこの男はそれはできぬと申したではないか。ならば良いと妥協するほど、元就はできた人間ではない。強欲なのだ、己もまた。そう思う。国を守らねばならぬ。家を守らねばならぬ。それらの荷を預けた瞬間、何もなくなったかと思えばそうではないのだ。欲求は強くなるばかりで、満たされず苦しむばかりで。
「ああ、分かってる」
だから、もう一度ちゃんと互いを見よう。抱き合うのも殺しあうのもひとまず置いて、対面に座して、きちんと話をしよう。まずは自己紹介から?生い立ちの説明から?それもいいだろう。知らぬことばかりだ。
「俺は何もいらねえ。ただあんたが俺を照らしてくれれば、もうそれでいい」
おまえが譲らないなら、仕方ないから、ほんの少しだけ俺が大人になってやるよ。
元親は笑って、小さく元就の額を小突き、ほんのりと赤くなったそこを優しく撫でた。
ああ、殺したいほどいとおしい。