ちょっとした出来心






 大岩ひとつ叩き潰すほどの超刀がありえないスピードで襲ってくるのを、毛利はバックステップを踏んで距離をとった。冗談ではない、あんなものを真正面から受け止められるか。
 輪刀を構えじりじりと地面を踏み慣らしながら忌々しげに顔を歪める。ああもう、面倒くさい。
 昨夜長曾我部が好き勝手してくれたせいで全身が非常にだるい。特に腰のあたり、体の中心は鈍く痛むし、無駄に大きな体でぎゅうぎゅう抱きしめられて眠ったせいか筋肉痛のようにバッキバキである。おまけにどんなに訴えても明け方近くまで放してくれなかったせいで頭はぼんやりしていて、戦闘どころか立っているのもやっとの状態だ。早朝から散歩になど出なければよかった。と、後悔してももう遅い。
 冷や汗を浮かべる元就をじろじろと眺めて、風来坊は超刀を肩にかつぐと不思議そうに目を細めた。
「なんだい毛利の兄さん、調子でも悪いのかい?もうやめとく?」
 馬鹿にした風でもなく本気で言っているようだが、毛利はぎりぎりと眉を吊り上げた。
「貴様……我を侮辱するか!」
「えっ、いやいや別にそんなんじゃないよ。ただ本当にあんた調子悪そうだし、本気で戦えない相手と喧嘩なんてしたくないよ。弱い者いじめ嫌いだし」
「おのれ……日輪に奉ってくれようぞ!!」
「うあああ、ちょっと、無理しなさんなって!!」
 いちいち地雷を踏みぬく慶次だったが、高く掲げられた輪刀が輝きを放つのを見て慌てて逃げるように走った。
「焼け焦げよ!」
 日輪の威光が地面を焼き慶次の足元まで伸びるがぎりぎり届かず、舌打ちしながら息を整えていると軽やかな足取りで慶次がせまってきた。
「やっぱり本調子じゃないね、じゃあこれでおしまいっと!」
 ひゅっ、と風を切って振り下ろされたそれを寸でのところで受け止めたが、力を受け流す余裕もなく毛利は膝を折った。両の腕に負担がかかりやがて輪刀が弾き飛ばされる。やられる、と硬く目をつむった瞬間、超刀を横手に持った慶次がそのまま毛利の体を地面に押し倒した。
「俺の勝ちね。て言っても何か納得いかないんだよな」
 地面に倒れこんだままこちらを睨み上げる毛利を見て肩をすくめる。荒い息を繰り返しながら元より白い顔は赤く染まり、汗に濡れた髪が頬や額にはりついてぐったりしている。戦いの後だというのにやけに色っぽい姿に見てとれて慶次はぐっと喉を鳴らした。
(あれっ何かやばくない?)
 待て待てこれは謀神、詭計智将の冷酷非情と名高い毛利元就だぞ。何くらっとしているんだ俺。必死で胸の内で叫びながら、もっと彼を眺めていたいという誘惑に勝てず毛利の上にまたがって座り込んだまま降りようとしなかった。
 ふいに武器を手放したままの毛利の手が懐に入る。何かを探っているようだが見当たらないのか次第に表情が焦りに変わる。
「何?何か落し物?」
「う、うるさい黙れ!」
 通常ならばさっさとどけ、と言うのが先だろうが、それどころではないようだ。上に乗られたまま動きづらい体勢で毛利はここでもないここにもないと手当たり次第服の中を探っていく。しばらくすると、からん、と軽い音がして地面に丸い小さなものが転がった。
「あ」
 慌てて拾おうとするが上に乗っている慶次の存在が邪魔をする。かわりに慶次が手をのばして、ひょいとそれをつまみ上げた。
「なんだいこれ?あ、まだ毛利さん薫物使ってるんだ」
 薫物とは練香のことである。香木を粉末にし、麝香を加え、練り合わせる。歌合わせや貝合わせとともに貴族文化に広く浸透していたものであり、処方方法はその家に代々伝わるものであったと聞く。だがこの戦国の世においては武士たちの間では戦の前、精神統一のために甲冑に香を焚き込めたり、薫物よりも香木そのものを好むようになった。
「これ大事なもの?毛利家に伝わるものなんだ?」
 ちょっとだけいい?と返事も待たずに蓋をとり鼻を近づけてみる。ふわりと香るそれは白檀だ。
「返せ!」
「返すよ。でもそんなに大事なら預けておけばいいのに」
「う、うるさい」
 慶次の言葉に返すセリフは、それまでの毛利元就という人物の印象を覆すにはじゅうぶんすぎるほど覇気のないものだった。むしろ恥ずかしげに顔をそむけ、薄い色をした髪の間からのぞく形の良い耳はうっすら赤くなっている。妖艶と言ってもいいその姿に、慶次は「つい」体が動いてしまった。
「……ッ!ふ、」
 驚いて目を見開く毛利のまぶたをてのひらで覆って、慶次は体を屈めると薄く開いたままの唇を吸い上げた。想像していたよりも熱く、柔らかい。この唇からいつも刃のような毒舌が繰り出されるのかと思うと、その矛盾に体が熱くなるのを感じた。
「ん、ん……!!」
 逃れようと毛利が身をよじるが、一般的な男よりも大柄な慶次にのしかかれたままではわずかに体を跳ね上げるくらいしか効果がなく、必死で抵抗しようとしているうちに舌を吸われて力が抜けていくのを感じた。
「んん、んぁ……」
 甘い声が鼻を抜ける。明け方まで戯れに興じていた体に再び火が灯ろうとするのを毛利は抑え込もうとした。こんな失態許されるわけがない。
 たっぷりと唾液を舐めとって慶次の顔が離れていく。覆われていたてのひらも同時に放され、日の光が白く眩しい。 
 肩で息をしながら茫然と見上げる先には、陽気な男の無邪気な笑顔があった。
「あ、ごめん」
「………ッ!!」
 なにがごめん、だ。ごめん、で済むかこの万年春男めが!!
 いい加減にどけ、と膝で慶次の体を攻撃すると、さりげなくその膝の裏に手を当てられてびくりと体が震えた。
「何か、変な気分になっちゃったね」
「ふ、ふざけるな!貴様許さぬぞ……!」
「怒らないでよ。あんたが妙に色っぽいから……」
 ごめん、と情けない顔で笑おうとして、慶次は背後に殺気を感じて飛び退いた。
 一呼吸もしないうちに、それまで慶次が乗っかっていた毛利の腹の上あたりに鎖で繋がれた碇が襲ってきて風を斬った。あとほんの少し逃げるのが遅かったら上半身が真っ二つにされるところだ。
「てめぇ、何してやがる」
 腹の底に響くような声が響き、じゃら、と鎖が鳴った。
「や、やあ鬼の兄さん。ちょっとね、久々に四国に遊びにきたらあんたの宿敵がひとりで砂浜うろうろしてたからさ、何か企んでるんじゃないかと思って」
 だって敵なんだろ、と振り返る方向では、毛利が体を起して埃を払いながら大木に寄りかかるように座り込んでいた。むっとした表情のまま目を逸らしている。
「ああん?何だって直接俺のところにこねぇで毛利と遊んでやがるんだよ。しかもてめぇあいつにちょっかい出してたろ?ぶっ殺すぞコラ」
「へ?」
 何やら不思議なセリフを聞いた、と超刀をかついで目を瞬かせると、長曾我部はぎりぎりと慶次を睨みながらも毛利の方へと歩み寄っていく。
「おい、大丈夫か」
「大丈夫なものか。貴様のせいでろくに体が動かぬ。しまいには口吸いまでされたではないか」
「なん……だと」
 あ、まずい。
 ふたりの関係性については険悪、とか、犬猿の仲、とか、宿敵、だのと言った情報しか持っていないが、何やら自分の今の立場は非常に危うい位置にあると慶次は直感した。
「あ、ええっと、俺帰るね!まつ姉ちゃんがご飯作って待ってるからさ……」
「てめぇ……前田慶次……」
 鬼だ。鬼が殺気を放ちながらゆらりと立ち上がる。
「違うってそんなんじゃないって。ただの出来心だって!」
 なにが「そんなんじゃない」のかは自分でも意味不明だが、慶次はぶんぶん手を振りながらあとずさった。
「ていうか俺別に毛利の兄さんどうこうしたいとかって怖ろしいこと考えてないし。だって抱いてる最中でも首狙ってきそうだもん。気持ちいいことしてる真っ最中に死んだりしたくないもん!」
「てめえ何も分かってねえな!腹上死は男のロマンだろうがよ!」
「意味違うよ!?腹上死って別にエッチの最中に刺されて死ぬことじゃないからね!?」
「うるせぇ!そんな余裕もねえくらいグッチョグチョにしてやんよ!」
 はっ、と豪快な笑みを浮かべて宣言する長曾我部に、毛利の顔がひきつった。
「さっすがアニキ!男だねぇ!」
「おうよ!」
 あ、何だか機嫌を直しかけている。
 とっさに慶次には頭をフル回転させて、「アニキを気持ちよくおだててこの場を切り抜けよう作戦」を発動させた。
「いやぁ、鬼の兄さんは羨ましいなあ!こんな美人さんとあれやこれやしちゃってさ!男冥利に尽きるよね!じゃじゃ馬馴らしってやつ?いよっ!西海の鬼!!」
「へへっよせやい!」
 そろそろと近づいて行って長曾我部のたくましい肩を叩きながら、さも親しげに笑いかけてみせると、長曾我部もまんざらでもなさそうにでれでれと頬を緩めた。
「そりゃおめぇ、簡単に落ちねえから落し甲斐があるってもんよ。命の危険と隣り合わせの逢瀬なんてよ、海賊にぴったりだろ!」
 命の危険と隣り合わせの逢瀬、とは、許されぬふたりが周囲の反対を押し切って愛し合うという意味ではなく文字通り「殺されそうになりながら抱く」という意味である。凶器を腕に抱いて宥めすかしながら愛の言葉を囁いているようなものだ。
「なるほどねえいやぁさすがだねェ」
 とへらりと笑いながら降参、の意味なのか両腕をあげつつ、そう言えば手の中にまだあった、と左手を下ろす。
「ごめん毛利さん、これ返すね」
 そう差し出す薫物入れを長曾我部が奪う。
「なんだこりゃ。……なんだよ毛利、おまえまだ持ってたのかよ」
 呆れたように言って、嬉しそうににやにや笑った。
「そんなに気に入ったんならまた作ってやるよ」
「ふん」
「え、それ鬼の兄さんが処方したの?うわぁ見かけによらず繊細なご趣味だね」
 意外だ、とふたりを見比べる。
「いやぁ俺には到底真似できないよ。てことで邪魔して悪かったよ、俺そろそろ……」
「まあまてや」
 ハハハ、と愛想笑いを浮かべながら立ち去ろうとする慶次の腕をがしっと掴んで、西海の鬼がにやりと笑う。
「で、俺のお宝勝手に触って口吸いしたってぇのはどこのどいつだい?」