【毛利元就の場合】
春だ。
とは言えまだ3月の半ば、脱いだばかりの制服が少しは恋しくなるようなそうでもないような微妙な時期である。
シャツの上にモスグリーン色をした薄手のパーカーを着てはいるものの、元来寒がりの元就は少し体を震わせて、不機嫌そうに眉をひそめた。
もう少し厚着してくるべきだったかもしれない。
けれど、もう少しすれば桜の蕾が膨らむという季節に手袋やマフラーなど身につけるものではない、と思うのだ。
「ここで合っているのか」
もう一度メモ用紙に目を落とし、呟いた。少し目が乾いている。何度か瞬きをして息を吐いた。
高校を卒業してから、元就は眼鏡をコンタクトレンズに変えた。
目の中に異物を入れる行為ははじめひどく抵抗を感じたが、慣れてしまえばもう眼鏡に戻ることはないだろうと思えるほど心地よい。
何といっても眼鏡のときはレンズと裸眼との間に小さな空間が挟まっていて、そこだけ異次元のようにぐにゃりと世界が曲がって見えていた。
鼻の縁も痛いし、何より長時間かけていると頭痛がするのが嫌だった。
それをコンタクトレンズに変えると、入れる瞬間とはずす瞬間の不快感さえ慣れてしまえばあとは天国である。
なにしろどこを見渡しても異空間は存在しないし、顔に何かがくっつている、という感覚もない。
初心者はソフトレンズがおすすめだと言われたが、手入れが面倒なのとコストパフォーマンスを考えてハードレンズにした。
目にゴミが入ると地獄だ、と兄に脅されたがまだ経験はない。できれば一生味わいたくない。
住宅街から少し奥へ進んだところにある雑木林を抜けると、そこは都会の真ん中であることを忘れさせるような光景が広がっていた。
森に囲まれた平地に突然姿を現す真っ白な建物。
平べったい三階建ての邸宅は前時代的な別荘を思わせる。
正門をくぐるとよく手入れされた庭があり、小さな池があった。古びたブランコはもう数十年も放置されたままのようでとても乗って遊べるようには見えないのでただのオブジェなのかもしれない。
建物自体は古いものだろう、木造でどっしりした構えを見せていて、ペンキは最近塗り直されたらしく白く光っていた。
どこかで犬の鳴き声がする。裏庭かどこかにいるのかもしれない。
元就の背の丈ほどの門に手をかけると、ギィ、と音をたててそれはあっさりと開いた。
意を決して中へ踏み込み、ちょうど十五歩数えたところで玄関にぶち当たる。呼び鈴を鳴らすかノックするか考えているとふいに人の声がした。
「あら、もしかして」
振り返るとちょうど裏から出てきたらしき女性が鎌を片手に姿を現した。
鎌が赤黒いものではなく茶色の泥で汚れているのを確認して、物騒な事件に巻き込まれるわけではないらしいとそこそこ冷静にテンパった分析をしてから元就は顔を上げる。
「こちらに世話になる毛利元就という者だが」
「ええ、ええお待ちしてましたよ毛利どの。管理人をやっております前田利家が妻、まつと申します。どうぞよろしくお願いします」
【長曾我部元親の場合】
「やばい」
腹筋の力でベッドから一息に起き上がり、まず最初に発した言葉はそれだった。
ごきっと首を鳴らして周囲を見渡すと、段ボールの山と脱ぎ散らかした服、よく分からない紙やらゴミやらが散乱してひどい有様だ。
家宅捜査されました、と言っても誰もが納得するだろう。いやむしろ空き巣に入られた、が正しいか。
ともかくのんびりしている暇はないとあくびを噛み殺しのろのろ起き上がってカーテンを開けた。
天気はいいようだがタンクトップ一枚で寝るのはまだ早かったようだ。
ひとつおおきなくしゃみをして、元親は湯を沸かすために段ボール要塞を押しのけ体を縮めてはキッチンへと向かう。
冷蔵庫に貼ったメモ用紙をちらりと見てうーん、と唸り声を上げた。
「慶次のやつの紹介だから即オーケーしたけどなぁ、あんまり人と朝から晩まで一緒ってのはねぇ。寮生活じゃあるまいし」
とは言いつつなんだかんだで楽しみにしている元親である。
彼が独立してBarを開いてからもうすぐ一年になる。バイトとしてたまにやってくる前田慶次に知り合いで家を探している人はいないか、と尋ねられたのがきっかけだった。
店はそこそこ盛況だし、なんやかんやで趣味の多い元親には大学の頃から住み慣れた1Kの部屋は少々手狭になってきた。
それならばといそいそ手渡されたチラシは入居者募集中の邸宅で、家賃も格安で提供すると言う。
慶次の親戚夫婦が管理している大邸宅だが空き部屋が多く維持をするのも大変な苦労をしているらしい。
そこで、リフォームして独身者用の1LDKを2階に四部屋、夫婦や友人同士との同居用に2LDKを3階に四部屋確保。
おおっぴらに募集はせず紹介制で入居者を探しているらしい。
1階には管理人夫婦の部屋とは別に、共同のリビングダイニングや大浴場まであるというからなかなかの豪邸と言えるだろう。
仕事中の忙しさと酒の香りに背を押されてか、割と簡単に返事をしてしまった元親である。
慶次の友達もそこに住む予定だと聞くとちょっぴりわくわくするではないか。友達の友達は友達だ。
じっくり時間をかけてコーヒーを味わい、トーストを飲み込んで身支度を整えると、メモ用紙をジーンズのポケットに突っ込み外へ飛び出した。
下見に行くとは言ってあるが何時頃とは告げていない。慶次は、いつでもいいので管理人に声をかければ中を見せてくれると言っていたのだが。
* * *
家を出る、というのは大学合格が確定してからすぐ元就の中で決定したことだった。
そもそもこれまでもひとり暮らしだったようなものだ。毛利、という表札のかかった家があったに過ぎない。
家族がいる場所が家なのか、建物が建っていればそこが家なのか。
「お兄ちゃんはね、心配してるんだよ」
今にも泣きそうな顔で、いい年した大の男が涙目になりながら手を握ってくるのを、元就は微妙な気持ちで眺めていた。
この十も年の離れた兄は実質親のようなものだった。
物心つくかつかないか、といった頃に母親を亡くし、父親は大企業の創設者として海外を飛び回る日々だ。
そんな家庭で元就を守ってくれたのは雇いの家政婦や警備員ではなく兄だった。
いまいち感情を表に出さず友達と騒いで遊ぶでもなくひとりで本を読んでいるような子供だった元就を、兄はそれはもう心配した。
兄は大学を出た後父の会社に入り、日本本社を任されている。多忙な毎日で生活時間のずれは多くあったが、それでも兄と一緒に暮らしているのだ、という安心感が残されていた。
だが元就の高校卒業と時を同じくしてその兄もまた海外進出のため五年ほど中東へ出向くことになったのである。
弟ひとりを家に残すなんて、と兄と父は大いに揉めたが、結局、もう子供ではないのだからと元就はひとり残ることを決めたのだった。
家政婦も警備員もいらないだろう。大学生にもなってそんなものに頼っていては笑われてしまう。
けれど広い家にひとりきりなんて絶対ダメだ、掃除ひとつまともにできないくせに、と言われてしまえばそれまでだ。
雑巾の絞り方ひとつ知らない元就に廊下を磨けと言ってもきっとべっちゃべちゃのぐっちょぐちょになって自分で滑って転んで頭を打って大けがするところまで想像できる。
庭の草刈りの仕方だって分からない。鎌を持った瞬間指をざっくりなんて洒落にならない。怖すぎる。
料理だってしたことがない。カップラーメンを食べるためのお湯の沸かし方からダメダメだ。これがゆとり世代なのだろうか。多分違う。
そんなわけで、どこかから伝手をたどって兄が持ちかけたのは知り合いの知り合いの知り合いが管理人をしているというとある場所への入居である。
「寮みたいなものだと考えればいい。でも全員それぞれ違う生活をしているから干渉はしないと思うよ。支払いさえすれば朝と夜の食事は作ってくれるらしいし、掃除だって自分の部屋をちょいちょいっとするだけでいいし。この家は人に貸すことにして、元就はそこへ行きなさい」
知り合いの知り合いの知り合い、つまり全くの見ず知らずの他人ではないか。友達の友達は友達ではなく他人なのと一緒である。
「しかし兄上・・・・・・」
「元就」
がしっと両手を握り込み、兄は今にも泣きそうな顔で元就を見つめる。
そろそろ三十路に届こうとする男だが、どうやら兄弟そろってあまり背が育たない遺伝子を受け継いでいるらしくこじんまりした兄はちょっと可愛い。
そして自覚はないがブラコンの元就は、こんな兄の顔に大変弱かった。
「お兄ちゃんはね、心配してるんだよ。分かってくれるね?毎日メールするからね。手紙も書くよ。正月と盆には帰るからね」
とうとう泣きだした兄を必死に慰めながら、つられて元就も涙目になる。ええいああ君からもらい泣き。実は涙もろい元就だったが、それを知っているのは家族だけである。
眼鏡をとろうとして、ああそういえばコンタクトにしたのだった、と指で涙を払いながら、元就はこくこくとうなずくしかなかった。
他人と暮らすのは煩わしいが、言ってみれば食事つきのマンションのようなものなのだろう。
同じ部屋に住むわけでもないし、便利と言えば便利だ。防犯の懸念も少ない。
知り合い(の知り合いの知り合い)が管理人ならおかしな隣人がいても事件沙汰を起こさず対処してもらえるはず。
新聞に載ったりテレビで少年A呼ばわりされるのも恥ずかしい。
「分かりました兄上。だからもう泣かないでくださ」
い、と語尾を揺らしながら唇を噛むと、兄は顔をぐちゃぐちゃにしながら元就を抱き締めるのだった。